アーカイブス・ヘッダー

 

   

サッカーマガジン 1994年8月31日号

ビバ!サッカー

少年サッカー大会の改革を

 Jリーグの成功も、もとをただせば、長年にわたる少年サッカー育成の努力が土台になっている。夏休みの全日本少年サッカー大会をのぞいてみて、子どもたちの一生懸命なプレーに改めて感心した。しかし同じことを続けていては進歩はない。少年サッカーも改革のときである。

☆少年大会の歴史
 猛烈に暑かった夏休みのある日、東京郊外の多摩丘陵にある「よみうりランド」のサッカー場に行ってみた。いまは「ヴェルディのグラウンド」と言った方が通りがいいが、もともとは「少年サッカーのメッカ」といわれた場所である。
 全日本少年サッカー大会の決勝大会の試合が、4面のグラウンドを使って繰り広げられていた。子どもたちは暑さにめげず元気がいい。
 グラウンドに掲げられた大看板には「第18回大会」と書いてあったが、実は、小学生の全国大会が生まれてから本当は「第28回」である。もともとは「サッカー少年団大会」の名前ではじまり、子どもたちの間にサッカーを広めようと、苦労に苦労を重ねて第10回までこぎつけたところで、大会の名前が変わり、回数も新たに付け替えられた。そのために、本当は28年の歴史があるのに「第18回」となっている。
 なぜ名前が変わり、回数が付け替えられたかというと、11回目から新聞社が後援に入り、広告会社がスポンサーを付けたからである。広告会社が「新しい大会ということにしないとスポンサーが集まらない」と主張したので、それまでの歴史はチャラになったというわけである。 
 新聞社が後援に入り、スポンサーがついたおかげで、大会はにわかに盛大になった。会場の「よみうりランド」は「少年サッカーのメッカ」と呼ばれるほどに全国に知れわたった。それはそれで良かったのだが、創設のころの苦労が忘れられてしまったのは残念だ。

☆創設期の苦労
 「第18回大会」の本部席に行ったら、愛媛大学の田中純二先生がいた。田中先生は「少年団大会」のころからの大会育ての親である。
 創設当時の田中先生たちの苦労は文字どおり「汗と泥にまみれた」ものだった。
 1967年の第1回大会は富士山麓の本栖湖で行なわれ、水不足に悩まされた。
 第2回は東京代々木のオリンピック記念青少年センターを宿泊所に、都内のあちこちのグラウンドを借り歩いて開き、炎天下のバス輸送に苦労した。
 第3回大会の1969年に「よみうりランド」にサッカー場が出来ることになった。ここには3千人収容の宿舎があるので安心していたら、サッカー場の工事が間に合わず、近くの町田市のグラウンドを借りることになった。ところが、開会式の直後に大豪雨に襲われ、丘の上に開発中の団地から泥土が押し流されてグラウンドを埋めてしまった。
 田中純二先生は、そういう創設期の苦労も、みな経験してきておられる。その先生の目から見れば、いまの少年サッカーの隆盛は、夢のようなものだろう。
 28年目の今回は、全国で7962チームが予選に参加した。
 目の前で展開されている少年たちのテクニックは、創設期のころとは比較できないくらいうまい。
 大会運営は、手慣れたもので、なんの心配もない。
 だから田中先生は、大満足だろうと思ったら、そうではなかった。

☆新しいメッカの建設を!
 「ここも少年サッカーのメッカと呼ぶには、ちょっと雰囲気が変わってきましたね」
 と、少年サッカー育成の功労者である田中先生がいう。「新聞社にも、ランドにも、長い間、お世話になっているから、言いにくいんですが……」
 たしかに、周囲の環境は、かなり変わってきている。
 25年前には少年用のサッカー・フィールドが一面あった場所に、いまはゴルフ練習場の巨大な金網がそびえ立っている。隣の遊園地には、これも巨大なジェット・コースターの施設がそびえている。 正規のサッカー・フィールドが3面残っているが、芝生の1面はブロのヴェルディ専用である。その傍にヴェルディの立派なクラブハウスが出来ている。 
 少年サッカー大会は、そういう新しい施設に囲まれた谷間で開かれている。 
 田中先生に遠慮がちに指摘されて「少年サッカー大会と、このランドの歴史的使命は、もう終わったんだな」と、ぼくも気がついた。 
 「涼しい北海道あたりに、新しい少年少女のスポーツランドを建設して、少年サッカーのフェスティバルも、まったく新しい視点で考え直したらどうだろうか」 
 と考えた。 
 第20回大会、通算30年目を区切りにして、また会場も、大会名も内容も、回数も、新しくしたらいいんじゃないか。


前の記事へ戻る
アーカイブス目次へ

コピーライツ