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サッカーマガジン 1994年8月10日号

ビバ!サッカー World Cup USA94

素晴らしかったUSA94の反省点

 米国の大衆が盛り上げ、アジアも東欧も、北欧も、ぐんぐん伸びていることを示し、サッカーが世界のスポーツであることを改めて見せてくれた。決勝戦は最高のカードだった。すばらしいワールドカップだった。世界一がPK戦で決まったことを除けば……。

PK戦で優勝とは!
ブラジルのすばらしさを勝負で証明して欲しかった!

 ローズボウルのスタンドが、黄色いシャツの大歓声に揺れるのを見ながら「ワールドカップが、これでいいのだろうか?」と溜め息まじりに考えた。 
 決勝戦は延長のすえ0−0。ブラジルがPK戦でイタリアを破ってトロフィーを獲得した。どちらが勝っても史上初の「4度目の世界一」になるところ。そんな記念すべき優勝を「PK戦で決めていいのか」というのが、ぼくの偽りのない感想だ。 
 PK戦は、もともと抽選の代わりに始められたものである。 
 勝ち抜きトーナメントの試合が引き分けに終わったとき、かつては抽選をしていた。勝負は引き分けだが、次のラウンドの試合に出るチームを決めなければならないので、便宜上、クジをひいたのである。PK戦は「クジよりはスポーツ的」というので考えだされたが、当初はあくまでも抽選の代わりだった。 
 決勝戦が引き分けの場合は、次のラウンドはないのだからクジもPK戦も必要ない。そこで「双方優勝」あるいは「3日後に再試合」がふつうだった。 
 ところが10年ほど前にヨーロッパのカップ戦で、決勝戦でもPK戦をして、トロフィーの行方を決めるようになった。それ以来、この方式が広まって、とうとうワールドカップの優勝までPK戦で決めることになった。
 「スポーツ精神の退廃だ」と、ぼくは思う。 
 勝負は、フィールド全体で秘術を尽くして争ってもらいたい。その結果が、かりに無勝負であっても、結果よりも、すばらしい試合をしたことの方に意義を見出してもらいたい――。なんて思うのは古くさいだろうか? 
 「PK戦はクジと同じだよ。どちらが勝つかは偶然だ」と、イタリアのバレージが言っていた。 
 勝ったブラジルのゴールキーパーのタファレルも「PK戦でベストのチームが決まるわけじゃない。PK戦で優勝を決めたいとは誰も思わないよ」と話している。 
 それが本当だろうと思う。 
 それでも、PK戦に勝ったあと、ブラジルの選手たちは、踊り上がって喜んでいた。敗れたイタリアのチームが、首うなだれて2位の表彰を受けているさいちゅうにも、フィールドのうえで、お祭騒ぎだ。 
 ワールドカップのトロフィーを持って帰ることが、選手たちの人生にとって、またブラジルの国民のプライドにとって、どんなに大きい意味を持っているのかは、よく分かっている。だから敗者に対する「思いやり」を欠いた喜びようを非難するつもりはない。 
 しかし、ブラジルは、そのサッカーのすばらしさを証明するために、優勝をフィールド上の勝負で飾って欲しかった。 
 ワールドカップUSAは、終盤にますます盛り上がり、予想をはるかに上回る成功を収めた。 
 それだけに、PK戦で優勝が決まったのは「画竜点睛を欠く」ものだったと思う。

イタリアのプロ魂!
決勝戦を勝負に持ち込んだバレージ主将とサッキ監督

 「ブラジルが4−1で勝つんじゃないか」 
 決勝戦の前に、各国のジャーナリストが集まるメディア・センターで冗談まじりにこう予想した。 
 「バレージが出場すれば、話は別だけどね」 
 この予想は「大はずれ」だった。
 「バレージは出られないだろう」という見通しが、まず、はずれたので、ブラジル快勝の予想も、まったく狂ってしまった。 
 バレージは、いま世界最高のディフェンダーである。そのバレージが6月23日のノルウェーとの試合で膝(ひざ)を痛めて手術をした。内視鏡という器具を使い、切開をしないで手術するので、回復は早いのだが、それでも大会中に復帰するのは無理だろう、とぼくは思っていた。 
 ところが、イタリアのサッキ監督は、順調に回復していたバレージを決勝戦に3週間ぶりに起用した。 
 バレージの活躍は、みごとだった。守備ラインを流動的に前後、左右に動かすイタリア独特の守りを、すぐれた判断力で指揮し、的確な読みでブラジルの攻めを読取り、身体をはってピンチを防いだ。 
 33歳で120分の試合を戦い抜いた技術と精神力は超人的である。 
 決勝戦に関しては、殊勲、敢闘、技能の三賞と最優秀選手の称号を、フランコ・バレージに贈りたい。 
 このバレージを決勝戦で起用したアリゴ・サッキ監督の勝負師ぶりにも脱帽した。 
 膝の手術をした時点で、ふつうはバレージをあきらめ、別の対策をたてて乗り切ろうとするだろう。 
 あるいは、手術後の経過が順調なら、準々決勝か、準決勝でも、使ってみたい誘惑に駆られるだろう。 
 しかし、サッキ監督はポーカーフェースで、バレージを温存しながら苦しい戦いを続け、しぶとく生き残って決勝戦に進出すると、この一戦にかけてバレージを投入した。 
 苦し紛れに、準々決勝か、準決勝あたりで使っていたら、バレージは決勝戦であれだけの活躍を出来なかったに違いない。 
 しかし、グループリーグで苦戦を続け、幸運にも恵まれて、しのいでいたのだから、バレージなしでは決勝に進出できない可能性も十分に考えたはずである。
 「途中の試合で勝っても決勝で勝てなければ世界一にはなれない。途中で負ければそれまで。決勝に進出できたらバレージで勝負だ」と、サッキ監督は決断したのではないか? 
 決勝戦の前には「ロベルト・バッジオも肉離れで出られないのではないか」という噂が流れていた。 
 しかし、バッジオ抜きでは、やはり勝負にならない。先発メンバーで先頭に立っているだけでもブラジルを脅す効果は十分にある。
  バレージで守り、バッジオで脅かして逆襲の1点を狙って勝負に持ち込む。これがサッキ監督の狙いだったと思う。 
 0−0ではあったが、決勝戦の内容は高度なものだった。サッキ監督とバレージ。それぞれのプロ魂が光っていた。

米国大会が残したもの  
技術、戦術の面で久びさに新しいものを感じさせたが

 ワールドカップUSA94は、大会史上でも指折りのいい大会だった。 
 1970年のメキシコ大会から、これで7度のワールドカップを取材したが、競技面でも、運営面でも、70年のメキシコ大会、74年の西ドイツ大会に並ぶ、あるいは、それ以上に充実していたと思う。 
 競技面では、現代のサッカーのなかで、欧州と南米の対決が新しい局面に入ったことを、感じさせてくれた。 
 70年メキシコ大会では、ペレを中心にしたブラジルが、華麗な個人のテクニックとひらめきのサッカーで、3度目の優勝を飾った。今から見れば非常に優雅な、ゆとりのあるサッカーだったが、1958年大会のブラジルの4−2−4−に始まる現代のサッカーのシステムが、一つの頂点を示した大会だといえるだろう。 
 74年大会の優勝は、地元の西ドイツだった。欧州同士が決勝を争い、ヨハン・クライフを押し立てたオランダが、トータル・フットボールとよばれた新しい戦法で旋風を起こした。これが、その後の欧州の厳しいサッカーの原点だったように思う。 
 今回の米国大会は、それ以来の、技術、戦術面での転換点を示す大会だったのではないだろうか。 
 ブラジルは、ロマーリオとベベットを先頭に立て、厳しく、激しい欧州の守りを打ち破るサッカーをひっさげて登場していた。4人の守備ラインの前にマウロ・シルバを置いた守りも新しいものを持っていた。 
 決勝戦で、その良さを奔放に発揮すれば、誰の目にも「新しいブラジル」が、サッカーを変えようとしていることが明らかになっただろうと思う。 
 一方、欧州の方では。イタリアが新しいものを持っていた。それはバレージを軸にする守備ラインである。中盤のサイドのプレーヤーが流動的に守備ラインに下がってきて、逆サイドのサイドバックが攻め上がる。この守りの流動性が「コンパクトなサッカー」と呼ばれる欧州の厳しいサッカーに新しい息吹を吹き込んでいた。 
 このイタリアの守りは、90年大会の時に、すでに見られたものだったが、今回はロベルト・バッジオがストライカーとして先頭に立ったことで、攻めの面で新しさが加わっていた。ただ、チームのコンディションが十分でなく、バレージとバッジオが、そろって活躍する場面が少なかったのは残念だった。 
 決勝戦は、新しい南米を代表するブラジルと、新しい欧州を代表するイタリアの対決だった。 
 守りの対決として、また勝負としては十分に見応えはあったのだが、この最高のカードが、ゴールを生み出せなかったのは残念だ。
 その一つの原因は、暑さだろう。 
 7月17日のロサンゼルスは猛烈な暑さだった。試合は直射日光の照りつけるなかで、真っ昼間の午後0時半からだった。 
 欧州のテレビのゴールデン・アワーにあわせた試合時間が、せっかくの好カードの足かせになった。これは大会運営の反省点である。


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