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サッカーマガジン 1994年4月6日号

ビバ!サッカー

ファルカン監督への不安

 日本代表のファルカン新監督が動きはじめた。Jリーグの試合をみて選手を選び、まったく新たにチームを編成、5月のキリンカップでまずテストする。目標は10月に広島で開かれるアジア競技大会だ。準備期間が短かすぎることもあって、期待とともに不安もいっぱいだが……。

☆おお! バルセローナ!
 ファルカン監督の来日記者会見はサッカー協会の用意したホテルの部屋からジャーナリストがあふれ出るくらいの大人気だった。
 リレハンメルの冬季オリンピックの取材から帰ってきたばかりという友人も駆け付けて「いやあ、バルセロナで目のくらむようだったファルカンが来たとあっては見逃せないからね」という。
 バルセロナというのは、1982年のスペイン・ワールドカップのときの話である。10年以上前の思い出を語るようになっては、この友人も若いと思っていたが案外トシだね。 
 あのワールドカップの2次リーグでブラジルがイタリアと対戦した。7月5日、場所はバルセロナのサリア・スタジアムである。 
 このときのブラジルは「黄金のカルテット」と呼ばれたジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾが中盤を組み、本当に目のくらむような、すばらしさだった。 
 試合は、ロッシのハットトリックでイタリアが3−2で勝ち、優勝への道を切り開いたのだが、こと中盤の攻めについては、ブラジルの「黄金のカルテット」が史上最高だと、ぼくは今でも信じている。 
 とくに後半23分にブラジルが2−2の同点に追い付いたときのファルカンのゴールは、天才プレーヤーのひらめきがチームプレーに結びついたもので「史上最高のゴール」の一つだったといっていい。 
 あのファルカンが、あのサッカーを日本に植え付けることができれば――もちろん万万歳である。

☆黄金の選手はいない? 
 「だけど、そこんとこが不安なんだよな」と別の友人が言う。
 不安はファルカンが天才的プレーヤーだったところにある。 
 ファルカン新監督の率いるチームに、ファルカン自身はいないのだ。これは名選手が監督になるときの宿命である。 
 プロ野球のジャイアンツの黄金時代を築いたONのうち、長嶋茂雄選手が引退して監督になったとき、チームにはNがいなくなっていた。王貞治選手が引退して監督になったときには、Oもいなくなっていた。しかし、ファンはON黄金時代の再現をスーパースターの監督に求めた。これは無理な注文である。 
 ましてや、ファルカンに「黄金のカルテット」の再現を日本で求めるのは不可能である。目を皿のようにしてJリーグを見たところで、ファルカンやジーコやソクラテスを日本人の選手のなかから見付けることは出来ないからである。 
 さらに付け加えれば、あのバルセロナで見た目のくらむようなチームは、ブラジルの風土と民族と文化のなかから生まれてきたものである。それを地球の反対側から直輸入しようとしても、日本の風土と民族と文化のなかで実を結ばせるのは難しいに決まっている。
 もちろんファルカン監督は、ブラジルのサッカーを日本へ直輸入しようとは考えていないだろう。 
 しかし、それでも――。 
 ファルカン監督のサッカーをやれるだけの人材が日本にいるかどうか、やっぱり不安である。

☆時間がなさ過ぎる? 
 「そういえばブラジル人の監督が外国で成功したという話は、あまり聞かないな」と友人が言い出した。 
 ブラジルのプレーヤーをたくさん輸入しているイタリアやスペインでも、ブラジル人のコーチを輸入している話は、あまり聞かない。 
 アラブの国に行ったブラジル人の監督が、ある程度の成功を収めた例があるくらいだ。
  ブラジルの独特の文化にはぐくまれたサッカーを、別の風土に移し替えるのは難しいのだろうと、ぼくも考えた。 
 別の友人が反論した。
 「監督ではないが、アントラーズでジーコは成功したぜ」 
 なるほど。 
 ある程度、時間をかければ成功する可能性もあるかもしれない。しかし、広島のアジア大会までは6カ月しかない。
 日本のようにタレントの乏しい国で外国人コーチが成功するには、一人一人を手作りで育てあげ、さらにチームとして、しっかりまとめなければ、やれないだろう。だが、この方式で行くには、少なくとも2年はかかると思う。 
 6カ月で、じっくり選手とチームを作り上げることは不可能だ。したがって、現在のレベルで、できるだけベスト・コンディションのプレーヤーを集め、そのレベルに合ったチーム戦術でまとめるしかない。 
 ファルカン監督も、記者会見で同じようなことを話していた。
 難しい仕事だということは、本人がいちばんよく心得ているようだった。


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