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サッカーマガジン 1993年12月1日号

ビバ!サッカー

逆コースを警戒せよ!

 技術と戦術能力のバランスのとれたサッカーへと、オフト監督が引き上げてくれたのに「ドーハの悲劇」のショックで、また、体力とスピードのサッカーに舞い戻ろうとするんじゃないかと心配だ。「ドーハの日韓戦」の成果を思い出し、逆コースを警戒しよう。

☆体力重視へ逆戻り?
 カタールのドーハで行われたワールドカップ予選から帰ってきて、非常に心配している。 
 何を心配しているかって? 
 日本のサッカーが「元の木阿弥」になってしまうのを心配している。 
 というのは、ドーハの戦いの評価について、ぼくにいわせれば「とんでもない」ことを言っている人たちがいるからだ。 
 最後の最後、残り10秒にイラクに同点にされた試合から1週間、Jリーグが、何事もなかったかのように人気を集めて、再開された。 
 そのテレビ中継を見ていたら、解説者が、あの「ドーハの悲劇」に触れて「日本選手は体力不足だった。筋繊維が細く、筋持久力がない」というようなことを話していた。 
 スポーツ科学の用語を使うと、もっともらしいけれど、問題は、そんなところにはない。
  あの試合の日本の選手たちの最大の問題点は、目の前に米国行きの切符がちらちらしはじめたとたんに、プレッシャーが戻ってきたことで、筋繊維が細かったことではない。 
 プレッシャーのために、冷静に戦局を見ることができず、無理なパスや不正確なセンタリングをして相手にボールを献上していた。それが守りに追われた原因であり、2−1のリードを守れなかった原因である。 
 「日本のサッカーの欠陥は体力不足だ。体力を鍛えてスピードと労働量のサッカーに戻れ」という考えが息を吹き返すんじゃないか、走れ、走れのサッカーが横行するんじゃないかと、それが心配である。

☆好みと考え方
 すぐ挙げ足をとる連中がいるので断っておくが、体力トレーニングが不必要だとか、日本の選手たちはドーハで体力的に万全の状態だった、と言っているわけではない。 
 暑さのなかで2週間に5試合の苛酷な戦いに、選手たちは、もちろん疲れていた。 
 しかし、あの「ドーハの悲劇」の本質的な問題は、そこにはない――と言いたいだけである。 
 サッカーの見方は、人によって、それぞれである。 
 カタールで最初の3試合が終わったとき、そのことを改めて思った。 
 ぼくは、0−0で引き分けた日本とサウジアラビアは、6チームのなかで、Aクラスだと思った。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)はイラクに逆転勝ちしたけれども少し落ちると評価した。現地からのレポートにも、そう書いた。 
 ところが、同じように現地で試合を見ていながら「日本とサウジアラビアは一段落ちる。北朝鮮はいい」という意見の人もいた。ぼくの考えとは正反対である。 
 これは、サッカーについての考え方と好みの違いだろう。 
 おおまかにいえば、ぼくは、個人のテクニックと戦術能力を重視し、反対の見方の人は、労働量とスピード、つまり体力のサッカーが好きなんだろう。 
 好みは、いろいろあってもいい。 
 しかし、日本のサッカーが世界の舞台をめざして伸びていくために、どんなサッカーが適当か、という話になれば大いに議論の余地がある。

☆ドーハの日韓戦
 日本代表の「ドーハの戦い」のなかで、もっと、もっと語ってもらいたいのは、韓国との試合である。 
 この試合では、日本のオフト監督の布陣が的中し、韓国の金浩監督が用兵を誤った。 
 そういう作戦面の明暗もあったけれども、ぼくが強調したいのは、日本の選手たちのプレーぶりである。 
 体力では韓国が上だった。韓国は6チームのなかで、もっともいい仕上がりでドーハに来たチームだ。金浩監督自身が、第1戦のあと、そう言って自慢していた。 
 しかし、90分間を通じてボールを支配したのは日本だった。日本の選手は、個人の技術で劣っていなかったし、個人の戦術能力では優っていた。日本がボールをキープし、韓国は体力を使って、それを追い掛け回していた。 
 韓国は走るスピードを生かし、はやいボールをゴール前へあげてくるタイプだった。しかし、はやくても単純な攻めに、日本の守りは、しっかり対応していた。 
 日本のゴールは1点だけで、これは、ちょっと不満なところだけれど、この1点は、一人一人のすばやい戦術的判断と個人技が結びついた、見事なゴールだった。 
 要するに、日本は、個人の技術と戦術能力で、韓国の体力とスピードのサッカーを封じ込めたのである。 
 この成果を忘れて、また体力とスピードに戻ろうというのか。 
 そんなことをされたら、たいへんだ――と、ぼくは心配しているわけである。


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