残り時間を示していた掲示板の時計は、もう消えていた。日本のワールドカップ決勝大会進出まで文字どおりの秒読みだった。そのとき、コーナーキックからイラクの同点ゴール。10秒後に試合終了の笛がなり、日本のサッカーの夢は消えた。1993年10月28日。ドーハの悲劇はなぜ起きたのか?
■結果論だけれど
「ジス・イズ・サッカー」
試合後の記者会見に現れたオフト監督の力のない第一声だった。
インジュリー・タイムに入ってからのゴールは、何度も見ている。
「これがサッカーだよ」という台詞(せりふ)も聞き飽きている。
しかし、これを日本代表チームの監督から聞きたくはなかった。これは、記者席にいるわれわれが、溜め息とともに吐く言葉である。
ボールは丸い。勝敗はどちらに転がるかは分からない。それは、よく分かっている。あの悲劇の残り10秒がなかったら、オフト監督は、にこやかに勝因を語っていただろう。だから、これは結果論である。
結果論ではあるが、あの悲劇が生まれた原因はあったに違いない。そのことを考えてみたい。
ワールドカップ・アジア最終予選は、砂漠に太陽の照り付けるカタールの町ドーハで、2週間に5試合の厳しい日程だった。
試合は陽のかげる夕方からで、想像していたほどの酷暑ではなかったが、湿気はかなりあって、選手たちには、やはりこたえていた。
もちろん、相手にとっても条件は同じである。しかし、近隣の国のイラクの方が気候には慣れている。だからこれは、最終戦でイラクの動きが良く、日本の動きが極端に悪かった一つの原因ではある。
集中開催の短期決戦では、いいサッカーは出来ない。ワールドカップ予選は、お互いの地元で1試合ずつ、ホーム・アンド・アウェーでやるのが公平だと思う。
■40キロの重圧
しかし、日本の動きが悪かった大きな原因は、肉体的な疲労よりも精神的な重圧だったと思う。
日本は第1戦でサウジアラビアと引き分けた後、第2戦でイランに1−2で敗れた。このとき「選手たちは40キロのプレッシャーを背負いこんでいる」とオフト監督は表現した。
残り3試合を全部勝たなくてはならない立場に追い込まれて、このプレッシャーは吹き飛び、朝鮮民主主義人民共和国に3−0、韓国に1−0で快勝して、USA行きの切符が目の前に、ちらちらしはじめた。
そのために最終戦では、再び40キロの重圧が戻ってきた。それが肉体的な疲労以上に、選手たちの動きを悪くしたのだろうと思う。
前半5分に日本が見事な速攻から先取点をあげた。これでプレッシャーが軽くなるかと思ったら、逆に「リードを守らなければ」という気持が、さらにのし掛かってきたようだ。
「これはいかん。気持が守りに入っている」
記者席で見ていて、そう思った。
守ろうとして、全員が後へ下がってくる。ボールをとっても前へつながらない。攻めに出てくるイラクの選手の出足の良さに、せっかく奪ったボールを、すぐ奪い返されることを繰り返している。
それでも前半は、イラクが最後の詰めをゴール前への放り込みに頼っていたのに助けられた。
ゴールキーパーの松永が、高いボールを、ことごとくキャッチしてくれたからである。
■用兵と国際経験
前半は1−0で日本のリードだったが、試合の主導権はイラクに握られていた。こういうときは気持を攻めに切り替えて、ボールをつないで敵を揺さぶらなければならない。
おそらくオフト監督は、ハーフタイムに、そういう話をしただろう。
しかし、話をするだけでは不十分である。監督の意志を形で示さなければならない。ぼくは、後半には長谷川に代えて北沢を出してくるのではないかと思ったが、メンバーの交代はなかった。
後半11分に同点にされた後、長谷川を引っ込めて福田を出したが、状況はますます悪くなった。下がりっきりの守りが、まとまって右へ左へと揺さぶられる。イラクは前半と違って、素早くつないで攻め掛けた。
やっと日本のパスがつながりはじめたときに、27分の中山のゴールで再びリードすることが出来た。ところが、その後、また守りに入る。このころには、もう肉体的にも疲れ切って、体が思うように動かないようだった。守りに追われると、攻めているときよりも、はるかに疲れがひどくなるものである。
最後の5分余り、なぜ敵陣でボールをつながないんだろう、なぜ相手にすぐとられるようなセンタリングを上げるんだろう、とはらはらしながら見ていたが、まさか最後の最後に、敵の方が落ち着いてショートコーナーキックをつないで同点ゴールを決めるとは……。これはもう、監督の用兵の問題ではない。選手一人一人の判断力の問題で、国際経験の差としか思えなかった。
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