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サッカーマガジン 1992年10月号

ビバ!サッカー 

サッカー記者36年!
蹴球からサッカーヘ、
時代は流れ、いま思うこと…

蹴球からサッカーヘ  
駆出しの新聞記者の意見にも耳を傾けた蹴球協会の度量!

 私事にわたって恐縮ですが……と書き出すべきところだが、実はちっとも恐縮していない。何しろ「ビバ! サッカー!」は、終始一貫公私混同、いまさら恐縮したって仕方がない。 
 さて、私こと――。 
 このたび、勤めていた新聞社を退職いたしました。今後はビバ!サッカー!の原稿料で食いつないで参りたい……と、書きはじめたが、編集長がそんな多額の原稿料に判を押すわけはない。さる6月に退職したのは事実だが、サッカーの原稿料で生活したいというのは、夢のまた夢である。 
 それは、ともかく。
 ぼくが東京新聞社の運動部に勤めたのが1956年だった。この年の12月にメルボルン・オリンピックがあった。日本のサッカーが韓国と予選を争って抽選で出場権を得た試合が、国際試合初取材だった。 
 新聞記者になったとたんに、日本サッカー協会(当時は蹴球協会という名だった)の機関誌「蹴球」の編集を手伝わされることになった。新聞社の仕事として手伝うわけではない。サッカー界の末輩として無償で仕事を言い付けられたわけである。 
 「蹴球」の編集責任者は、かつての朝日新聞の運動部長の山田午郎さんだった。サッカー記者の草分けといってもいい大先輩である。 
 それを同じ朝日新聞で写真部長を勤めた轡田三男さんが引き継いでいた。轡田さんは旧姓横村で早稲田大学OB、1936年ベルリン・オリンピックの日本代表選手である。 
 その轡田さんの下で、当時朝日新聞の運動部記者だった中条一雄さんが手伝っていた。中条さんは旧制の広島高校で「最後の旧制インターハイ」に優勝した名選手である。 
 というわけで、かくかくたる経歴の先輩の、しかも当時サッカーの後援を一手に引き受けていた朝日新聞の方々の、手伝いのまた手伝いを、他の新聞のトロッコ(一人前の汽車=記者=でないという意味)がやらされたのである。新聞社の仕事よりもサッカーの先輩後輩の関係の方が優先した「古き良き時代」だった。 
 さて、協会の雑誌の編集の手伝いを引き受けるにあたって、ぼくは生意気にも、雑誌の題名を「蹴球」から「サッカー」に変えるように主張した。蹴球の「蹴」の字が当用漢字に入っていないために教科書や新聞では使えない。だから新聞で使っている「サッカー」に変えて分かりやすくしようと考えたのである。 
 この考えは、轡田さんも、中条さんも同じだったのだが、当時の「日本蹴球協会」のお偉方の間では、反対意見が強かったそうだ。特に関西の大御所だった川本泰三さんが強硬だったと聞いている。
 しかし、当時の協会の実力者たちは「おとなげ」があって、外の意見にも耳を傾ける度量を持っていた。 
 いまでは、協会の名称も「日本サッカー協会」に変わっている。ぼくとしては先見の明を誇りたいところだが、いまでも「蹴球」の方がいいという意見はあるかもしれない。

読売クラブの成長!
二十数年前に夢見た計画が曲がりなりにも実現している!

 東京新聞で3年あまり働いてから読売新聞の運動部に移った。通算して記者生活36年である。 
 読売新聞での仕事の中で、いまになって「良かったな」と思うのは、読売サッカークラブの創設に協力したことだ。
 読売サッカークラブの創設は、読売新聞の兄弟会社の日本テレビが推進したものだった。日本テレビの運動部でサッカーを担当していた笹浪昭平さんが、読売新聞の社主で日本テレビで創設者だった正力松太郎氏のお声がかりを得て、当時の日本テレビの小林与三次社長に動いてもらった。ぼくは、別に読売新聞社から命令されたわけではなく、個人的に笹浪さんに協力して、かけずり回った。 
 笹浪さんの計画は、巨人を中心にプロ野球が出来ているように、読売クラブを足場に日本にプロサッカーを作ろう、ということだった。 
 ぼくの考えは、ちょっと違っていた。プロ化には賛成だけれども、プロ野球のようなシステムではなく、子供たちのチームから大人のチームまで抱えているクラブの頂点にプロがある形を描いていた。そういうことを笹浪さんに話して、アイデアを取り入れてもらった。 
 クラブが発足する1年くらい前だったと思うが、日本のサッカーの恩人といわれているデッドマール・クラーマーさんが日本に来た機会に、赤坂プリンスホテルの旧館に、笹浪さんと2人で訪ねていって、読売サッカークラブの構想を説明し、協力を求めたことがある。 
 ぼくは、東京と神奈川の境の多摩丘陵にある「よみうりランド」の見取り図を広げて説明した。 
 「広大な敷地にスキーのプラスチックのジャンプ台もあるしプールもある。その一角にサッカーのグラウンド4面とクラブハウスを加える計画だ」 
 クラーマーさんは、目をまんまるにして感心してくれた。 
 「こういうクラブを日本にも作れと言っていたんだよ」 
 ぼくの説明には誇張があった。スキーのジャンプ台や大きなプールがあるのは本当だが、それは遊園地の一部であって、これから作ろうとしているサッカークラブの施設ではない。それをあたかも、壮大なスポーツクラブにするような感じで説明したのである。 
 いろいろな施設を持つスポーツクラブがあって、その頂点にプロのサッカーチームがある。そういうクラブにしたいというのは、ぼくの単なる夢だった。その夢を実現間近な計画のように話したから、クラーマーさんは、ドイツのスポーツクラブに似た計画だと思って、おおいに感心してくれたわけである。 
 あれから二十数年。日本にもプロサッカーがスタートすることになった。 
 笹浪さんが計画した通りではないし、ぼくが夢見た通りでもないが、まあ、方向は大筋において正しかったんではないかと、ぼくは信じている。

アマチュアリズム批判
サッカーの哲学を宣伝しつづけた努力もついに報われた!

 36年の新聞記者生活の中で、いちばん苦労が多かったのは、オリンピックの仕事だった。4年に1度のオリンピックは、ぼくにとっては「労働」だった。 
 サッカーの方は、ぼくにとっては「趣味と実益」だった。しかし趣味だけでは給料をもらえない。そこで労働もせっせとやって、給料分は十分働いたつもりではある。 
 オリンピックといえば、長年のスポーツ記者生活の中で、ぼくは終始一貫、アマチュアリズム反対論だった。1970年代のはじめのころ「サッカー・マガジン」の姉妹誌の「テニス・マガジン」で2年間にわたって、アマチュアリズム批判の連載をやらせてもらったこともある。 
 オリンピック担当記者でありながら、アマチュアリズム批判を唱えてきたのは先見の明を誇っていいと、ぼくは内心、自画自賛している。しかし、実をいえば、反アマチュアリズムはサッカーそのものの哲学で、ぼくの発明ではない。 
 サッカーでは、国際サッカー連盟 (FIFA)が、プロもアマも統括している。欧州や南米では、一つのチームの中にプロ選手もいれば、アマチュアの選手もいる。ワールドカップにはプロでもアマチュアでも出場できる。 
 このような「アマプロ共存」が、サッカーの哲学である。これは、プロを排除する当時のオリンピックのアマチュアリズムとは、まるで反対だった。 
 このようなサッカーの考え方を宣伝し、プロの出場するワールドカップのすばらしさを知ってもらいたいという一念で、ぼくはアマチュアリズム批判にこだわり続けた。まあ、簡単にいえば、サッカーを宣伝するために、反アマチュアリズムだったわけである。そのために、ぼくは当時のスポーツ記者仲間では、少数派だった。
 1980年代に入って形勢は逆転した。オリンピックからアマチュアリズムが消え、バルセロナ大会の男子バスケットボールでは、米国の超一流のプロであるNBAオールスターが金メダルをとる時代になった。 
 節操のない日本の体協とオリンピック委員会は、それまで金科玉条のようにいっていたアマチュア規則をあっさり変えてしまった。
 これはサッカーの哲学の勝利であり、ぼくのスポーツ記者生活の勝利である、とちょっと自惚れている。 
 というわけで、今回の「ビバ!サッカー!」は、公器である誌面を乱用して、ぼくの新聞記者生活の回顧をさせてもらった。 
 自慢話のようだが、ぼくの昔話がウソでないことは、そのとき、そのときに、書き散らした記事が証拠として残っている。これはジャーナリスト商売の有り難いところである。その点で、ぼくの記事を掲載し続けてくれた読売新聞とサッカー・マガジンには心から感謝している。 
 サッカー・マガジンには今後も掲載し続けられるよう、読者の皆さまから、ぼくに対しては「励ましのお便り」を、編集長に対しては「脅迫のお便り」を、お願いしたい。


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