トヨタカップ先見の明!
テレビや広告企業が先走った計画に広い度量で協力した!
財団法人日本サッカー協会の会長が、去る5月に交替した。これまで会長だった藤田静夫氏は、若い頃から協会の役員として活躍され、今年81歳。功成り名遂げての引退に不思議はないのだが、実は藤田さんは心身ともにすこぶるお元気なので、失礼ないい方だが、辞めるのは「もったいない」という気がする。
ぼくは駆出しのサッカー記者だったころから、ご指導をいただいているので思い出話はいくつもあるが、まず、この雑誌の若い読者にも関係のある話を一つ紹介しよう。
毎年12月のトヨタカップを日本で開催するのには、実は藤田さんの密かな協力があった。それを、この機会に、日本のサッカー史の一コマとして記録に止めておきたい。
欧州と南米のクラブ・チャンピオンの「世界一決定」の試合を日本でやろうというアイデアは、実は日本サッカー協会の中から生まれたものではなかった。日本サッカー協会は最初は、むしろ反対だった。
トヨタカップ誕生のいきさつは、だいぶ前に別に書いたことがあるから省略するが、最初のアイデアは日本テレビと電通のサッカー担当者とぼくとの間で出た。
その後、いろいろな経過はあったが、トヨタが協力してくれることになったとき、電通と日本テレビの担当者は、国際サッカー連盟(FIFA)や欧州と南米のサッカー連盟に直接接触して、当時、欧州と南米のホーム・アンド・アウェーで行われていた、この試合を日本で行うように働きかけた。
しかし、サッカーの試合を日本国内で行うのは、日本サッカー協会の権限である。だから、FIFAが「よし、やろう」といっても、日本サッカー協会が賛成しなければ、実現できない。
「こんな、いい話に協会が賛成しないはずはない」というのは、トヨタカップが大成功を収めている今だから言えることで、当時の雰囲気はそうではなかった。日本サッカー協会の理事の中には反対意見が多かった。特に当時、若手といわれた理事たちが反対だった。
協会が反対する理由にも、もっともな点はあったのだが、直接には、自分たちが知らない間に外国への打診が行われたという「いきさつ」が影響したのだろうと思う。
日本サッカー協会が反対しているというので、電通や日本テレビの担当者は、非常に困った。
その時に趣旨と利点を、すばやく理解して賛成に回り、他の理事を説得してくれたのが、当時の藤田静夫副会長だった。
東京渋谷の岸記念体育会館4階の会議室で日本サッカー協会の理事会が開かれ、その結論を、2階の日本体育協会の部屋に潜んで待っていたときのことを、いまでも、きのうのことのように思い出す。
結果は「ゴー」だった。
藤田さんに「いきさつ」にこだわらない度量と、先を見通す洞察力がなければ、トヨタカップを日本で見ることは出来なかったはずである。
72年のピョンヤン行き
協会は北との交流に反対したが、アジアの将来を考えて!
もう一つ、これは今の若い読者には「関係ない」と言われそうな話だが、この機会に「今だから」話しておきたい。藤田静夫さんとともに、1972年11月に、朝鮮民主主義人民共和国を訪問した話である。
いまでも、日本と朝鮮半島の北側との交流は活発とは言えないが、それでも国交樹立のための政府間の交渉が進行中だし、民間ベースの交流は、多くはないにしても、支障は少なくなってきた。
しかし、いまから20年ほど前は、北側と接触することを犯罪のように見る人もいる時代だった。
1972年の5月に、その年の高校選手権優勝チームの千葉県市立習志野高校が、朝鮮民主主義人民共和国を訪問した。日本のスポーツ選手団として初めての親善訪問だった。
このとき日本サッカー協会は、この遠征を差し止めようとした。これも表と裏があったのだが、ともあれ建前としては、協会はOBを含む習志野サッカーの遠征を認めようとしなかったのである。藤田さんは協会の理事だったから、その時点では日朝交流反対の立場だった。
その半年後に、日本体育協会加盟のスポーツ団体の役員10人とスポーツ記者5人による体育使節団が朝鮮半島の北側に行くことになった。そのときのサッカーの代表が藤田さんだった。半年前の協会理事としての立場は立場として、このときは「協会理事たる藤田静夫個人」として加わったのである。
体育使節団自体が、当時のスポーツ団体の有力な役員を揃えていながら、日本体育協会ないしは日本オリンピック委員会の代表団ではなかった。みんなが表と裏を使い分けたわけである。
藤田さんは、体育協会でもサッカー協会でも、長老の方に入りかけていたが、柔軟に状況を理解して、メンバーに入ることを引き受けた。
ぼくたち新聞記者は、表も裏もない、堂々と特派員として同行した。
というわけで、とにかく1カ月近く、ぼくは藤田さんと一緒に珍しい国を旅行したわけである。
藤田さんも、ぼくも考え方は、この国とはまったく違う。しかし「日朝スポーツ交流の道は、いま開いておかなければならない」と思っていた。当時の南北関係の状況や国交正常化に踏み切った日中関係などの国際情勢からみて「朝鮮半島の北半分を孤立させるのは良くない」と考えたからである。政治的、経済的には接触が難しい状況だったから、スポーツで一本の糸をつないでおく必要があると感じていた。
こんなふうに、藤田さんはジャーナリスティックな国際感覚のすぐれた人である。それに一緒に旅行していて思ったのだが、ジャーナリストのような好奇心をもった人である。体制の違う国を旅して、ぼくたちから見ると、ちょっとカンに触るようなことがあっても、批判的に見ながら、しかし熱心に観察していた。
こういう国際感覚を、会長を退いたあとも、日本のサッカーのために生かして欲しいと思う。
後任は島田秀夫氏昇格!
81歳で試合に出るキャプテン会長は長沼健氏を推したが?
日本サッカー協会の評議員会で会長交替が決まったのが5月23日。その翌日に東京巣鴨の三菱養和グラウンドで、四十雀クラブの創立40周年記念大会があった。四十雀クラブは40歳以上のOBの親睦クラブで、40年前に、当時の関東蹴球協会の幹部が作ったのが始まりである。
この四十雀クラブの大会に、前日、勇退を発表した藤田さんが、ひょっこり登場した。
お偉方として顔を見せて。あいさつをしただけではない。ユニホームに着がえて20分ハーフだが、試合にも出場した。とても81歳とは思えない元気である。
40年前に東京に四十雀クラブが出来たとき、関西にも同じように、40歳以上のOBによる鹿鳴クラブが出来て東西対抗をした。そのとき、京都紫光出身の藤田さんは、鹿鳴の主力選手だった。つまり藤田さんは、中高年サッカーの草分けでもある。
スポーツ団体の会長さんには、政界や財界の偉い人が多い。有力者を担いで資金集めをする狙いである。
藤田さんはそうではない。サッカー出身の根っからのスポーツマンである。だから、ぼくたちは「キャプテン会長」と呼んでいた。チームの仲間の中から選ばれたリーダーという意味である。
しかし、わが「キャプテン」は、自らチームの先頭に立って奮戦し、ドリブルしはじめるとボールを離さない、というタイプのワンマンではなかった。大きな筋だけをつかみ、実務は当時の専務理事の長沼健さんに任せ、なにか問題が起きたとき、面倒を見るというタイプだった。キャプテンというより監督ないしマネジャーである。
これは、藤田さんが地方に住んでいたからかもしれない。細かい仕事をするために毎回、京都から東京に出てくるのはたいへんである。
しかし、それだけでなく、京都のスポーツ界のボスとして、出身の足場がしっかりしていたこともあったのだと思う。出身母体がしっかりしていない役員は、えてして、何でも自分で抱え込むワンマンになりがちだが、藤田さんには、何もかも自分が握っていなければ立場が危ない、というような心配はなかった。だから、安心して長沼健さんのような若手の役員を育てて仕事を任せることが出来だのではないだろうか。
勇退に際して藤田さんは、後任に長沼さんを頭に描いたようだ。かつての若手に「キャプテン」を譲りたいと思ったのだろう。
2002年のワールドカップ誘致を抱えているのだから、政界や財界の有力者を担ぐべきだという意見も当然あった。しかし、この事大主義には藤田さん自身が反対した。
結局、長沼健さんが、あくまでも辞退したので、内部から島田秀夫副会長の昇格に落ち着いた。
島田秀夫さんは77歳。以前に三部重工の役員を務め、サッカー関係者としても功績を残してきている。おだやかな人柄で、人望がある。新しい役員の勇み足を抑えて、バランスのとれた舵取りをお願いしたいと思う。
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