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サッカーマガジン 1992年5月号

ビバ!サッカー 

“サッカーくじ”を検討する前に
くじがなくても、サッカーは盛んになるが 

関係者の発言は慎重に!
「くじ」がなくてもサッカーは盛んにしなければならない

 「日本でもトトカルチョをやるらしいな。おれは大賛成だ」 
 と友人が意気込んでいる。
 「ちょっと待った」 
 と、ぼくは言いたい。 
 国民の1人として発言するのなら意見は自由だ。 
 しかし、サッカー関係者として、あるいはファンとして「サッカーを盛んにするのに役立つから」と賛成するのなら、発言は慎重にしてもらいたい。 
 理由は二つある。 
 @「くじ」があろうが、なかろうが、サッカーは盛んにしなければならないし、盛んになるに違いない。 
 Aサッカーのために賛成するというのでは、サッカーファンでない国民の理解は得られない。この種のものは国民全体の役に立ち、国民大多数の賛成を得られなければ成り立たない。 
 そういうわけで、ひいきの引き倒しになるような発言は慎んだ方がいいと思う。 
 実を言うと、トトカルチョ問題は今ごろになって降ってわいたように起きたわけではない。 
 一昨年、Jリーグを推進している人たちの話を聞いたとき、サッカー協会の新実力者がこう言っていた。 
 「トトカルチョを、やるべきですよ。プロサッカーを成功させるにはこれしかない」 
 そのとき「おそれながら」と、ぼくは忠告した。 
 「この問題をサッカー界から出すと、かえって、ぶち壊しになるよ」
 理由は三つある。 
 @いきなり新聞などに出ると、内容が十分理解されないままに、世論の反対を招くかもしれない。とくに主婦連や国会国内の野党の反応を見極めなければならない。 
 A「スポーツくじ」をやるなら、サッカーでなく、プロ野球でやろうということになるかもしれない。 
 Bくじの収入が、サッカー界のために使えると考えているのなら見当違いである。収益は国民全体のために使うことになるだろう。
 この心配には、根拠がある。 
 1964年の東京オリンピックを前にトトカルチョの導入が計られたときに、世論の猛反発を受けて、つぶれた前例である。 
 1960年のローマ・オリンピックの資金は、本場イタリアのトトカルチョで賄(まかな)われた。それを視察した日本体育協会の実力者が、東京オリンピック資金も同じ手でと、画策した。このときは、日本ではサッカーでなくプロ野球が対象で、プロ野球側の了解も、ひそかに取り付けてあった。 
 ところが、これが新聞にすっぱ抜かれたとたんに、猛烈な反対キャンペーンが起きた。主婦連や野党が立ち上がり、一流の新聞が反対の論陣をはった。そして「トトカルチョ」は、悪い「ばくち」の代名詞になった。 
 この二の舞にならないように、しなさいよ――というのが、ぼくの老婆心である。  

世間の反応は冷静だが!
舞台裏の推進者は比較的賢明だったが、政治情勢は悪い?

 東京オリンピックの前から数えると30年ぶり、Jリーグ推進の幹部が意欲を燃やしてから3年目に、トトカルチョが再燃した。 
 今回も新聞のスッパ抜きで表面に出たが、30年前に比べると世論の反応は比較的冷静だったようだ。反対論も出たけれど、それほど目立たなかったし、慎重派もスポーツ振興のための新しい資金源の必要性は、認めていた。 
 日本でトトカルチョをやるには、国会で新しい法律を作らなければならない。参議院で野党が多数を占めている国会で、野党の反対する法案を通すのは難しい。 
 そこで、舞台裏の推進者は、与党だけでなく野党の理解も得て、与野党共同の議員立法で提出することを画策したようである。  
 一方、所管官庁になる文部省の協力は、ぜひ必要である。文部省にとっては、新しい縄張りと資金源が出来るのだから悪い話ではないはずだが、世間の教育ママが猛反対するようなら、教育を担当する役所としては言い出しにくい。 
 Jリーグ推進の幹部が構想を練り始めたころ、その幹部と親しいぼくの友人が、無謀にも一人で文部省に乗り込んで直談判をした。
 「日本は2002年のワールドカップ開催をめざしている。それまでに日本のサッカーを盛んにして、スタジアムを作り、選手を強化することが絶対に必要だ。そのためにサッカーくじをやって欲しい」
  友人の大演説を聞いて、文部省体育局の人は苦笑いしたそうである。 
 「トトカルチョを、サッカーを盛んにするために、やってくれというのは、ムシが良すぎますな」 
 ところが実は、文部省はずっと前から、内部でトトカルチョの研究はしていたのだそうである。 
 だから「サッカーくじ」の構想が表に出てきたときに、十分に対応することが出来た。 
  スポーツ界では、サッカー協会は表面に出ずに、日本体育協会が先頭に立って実現を要望した。これも、なかなかよく考えられていた。「サッカーくじ」の具体的なやり方の案を海外でぺろっと、しゃべってしまったサッカー界の新実力者は、ちょっと軽率だったようだが実害はなかった。 
 というわけで今回は、かなり巧妙に浮上してきた「サッカーくじ」計画だがタイミングが悪い点もある。 
 なにしろ政治資金をめぐるスキャンダルが政界をかき回していて、国会は新年度の予算を通過させるのにせいいっぱいである。さらに参議院選挙を控えていて、与党も野党も、少しでも婦人票を失いそうなテーマには触れたくない。 
 アルベールビルの冬季オリンピックでは、日本選手が結構活躍したので、メダルを取るためには資金をという声は出なかった。 
 だから「サッカーくじ」が陽の目を見るかどうかは、いまのところは分からない。しかし、トトカルチョについて内容のある議論が出始めたのは収穫ではある。  

サッカーくじの長所  
どこでも簡単に買えて、配当が高額なほど障害は少ない!

 新トトカルチョ構想に、世間の反応は比較的冷静だった。その背景には「賭事」に対する日本人の考え方が、かなり変わってきたことかあるのではないだろうか。「賭は本質的に悪である」というような固定観念は姿を消しつつある。 
 予知できないことを当ててみる、というのは、昔からある素朴な楽しみである。ただ、それに資金や賞品を出すのに弊害が伴うかどうかが開題である。 
 この「賭事の弊害」については世間に誤解があるようだ。
 一般に射幸性が高いほど、賭の弊害が大きいと考えられているが、これは違う。 
 射幸性が高い。つまり滅多に当からない代わりに配当が非常に高額になるのは、一獲千金を夢見て働かない人を増やすから良くない、と考える人がいるのだが、実はその反対である。 
 8枠連勝複式の競馬は、場合の数が36通りである。さいころの目のように出る確率がまったく同じで道本の取り分がないとすれば、平均配当は36倍になる。 
 この程度の射幸性だと、競馬場に行って毎回馬券を買えば、ときどきは当たる。そうすると味を占めてまた行ってみたくなる。自制心に乏しい人は、麻薬みたいに中毒になって、毎日のように競馬場に通って仕事をしなくなる。これはギャンブルの弊害の最たるものである。 
 トトカルチョのいいところは、射幸性が高くて滅多に当たらないところにある。 
 イタリアのように13試合の勝ち、引き分け、負けを当てるとして、場合の数は159万4323である。これくらい確率が低くなると、本当に当たることを期待して券を買う人はいない。また1枚買っても10枚買っても当たりそうにないことは同じだから、財布の底をはたいてまで注ぎ込む人もいない。ちょっと1枚買って夢を見るだけである。 
 その代わり当たれば億単位の配当になる可能性はある。1億円当たったら働かなくなるかもしれないが、それで妻子が食えなくなる心配はない。そういう点で弊害がない。 
 トトカルチョのいい点が、もう一つある。 
 それは町のたばこ屋さんのようなところで気軽に買えることである。これは、時間が掛からず冷静に買えるのがいい。競馬場のように1カ所に集まって賭けると群衆心理で興奮してくる。また競馬場に行くために1日をつぶしてしまう。  
 サッカーは、各地に分散して試合をするから、サッカー場に行っても賭けた試合のうちの一つを応援できるだけである。だからむやみに興奮しても仕方がないし、八百長も仕組みにくい。 
 そういうわけで、トトカルチョは弊害の少ないギャンブルである。だからといって「サッカーくじ」をぜひやれ、というつもりはないが、議論をするときには、こういうことを知っておいてもらいたいと思う。


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