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サッカーマガジン 1992年4月号

ビバ!サッカー 

五輪予選の戦い方の疑問
チームの指揮官に問われるのは常に結果だ
 

五輪予選敗退の責任は? 
日本のサッカー全体に責任を転嫁するような発言は問題!

 クアラルンプールのオリンピック予選で日本の敗退が決まったあと、新聞に載った横山兼三総監督の談話には驚いた。「技術的にも、体力的にも日本の選手が、もっとも劣っていた」という談話である。 
 これではまるで「兵が悪いから戦争に負けた」と、将軍が兵隊に責任をおっかぶせているようなものではないか。あるいは「日本では、いい選手が育たない」と、評論家みたいな調子で、話を日本のサッカー界全体にすり替えているようなものではないか。 
 敗戦の原因を大いに議論して、将来に役立てることは大切である。しかし、敗戦の直接の責任者が、外部のマスコミに対して、こういう発言をするのは、おかしい。これは。聞き違いか何かではないかと思ったから、現地に行った記者仲間の友人に聞いてみた。 
 「選手に責任を押しつけるつもりはなかったんだろうけど」と友人が答えた。「でも、日本の選手が劣っているという話はあったな」 
 監督は「結果」に対して責任をとるべき立場である。敗因の分析は、まず監督の責任を明らかにした上での話だ。「敗軍の将は兵を語らず」が第一である。敗戦に対する論評はまず、強化本部の内部で自分の責任を明らかにしてから、自らの反省として語るべきではないか。 
 それ以前に、まるで第三者のような調子で、誤解を生みかねない発言をするのは、どうかしている。 
 もっとも、今回の場合は、ちょっと、おかしな事情もある。 
 オリンピック・チームは、もともと山口芳忠監督が指揮して、1次予選を勝ち抜いた。 
  ところが、1次予選で勝ったにもかかわらず、日本サッカー協会は、その後に横山兼三総監督を山口監督の上に置いて事実上、総監督に指揮をとらせた。 
 1次予選を勝ち抜いたのだから、山口監督が引き続いて指揮をとるのが本筋だが、1次予選の試合の内容を見て、日本サッカー協会の強化委員会が不安を感じたのだろう。 
 そうであれば、強化委員会の責任において山口監督に辞めてもらって、横山監督に任せればいいのだが、どういうわけか、そうはしなかった。山口監督を名目的に残して事実上の責任者は横山総監督になった。 
 ともあれ、そういう事情では、山口監督に最終予選敗退の責任を問うことは出来ない。 
 実際に指揮を執った横山総監督に責任があることは明らかだが、最初から任されては、いないのだから、その責任も中途半端ではある。
 ただし、任期の途中で事実上の監督交代を決断した協会の強化委員会の責任は重大である。強化委員長は、その点で、結果に対して責任を明らかにしなければならない。  

日本の選手は悪くない!
中国に対して守りを固めた戦法は間違いではなかったか?

 「日本選手が、いちばん劣っていた」というのは、横山総監督だけの考えではなかったらしい。 
 帰国後の報告会で川淵三郎強化委員長は「基本的なプレーや正確さが6チームの中で一番劣っていた」と厳しい評価をしたと、これも新聞に載っていた。 
 敗戦直後にクアラルンプールから送られてきた新聞の特派員の論評にも、同じ意見があった。 
 しかし、ぼくの見たところでは、日本の選手は悪くない。テレビで見ただけではあるが、技術、体力、気力とも、直接敗因につながるほど大きな差はなかったし、日本選手が優っている点もあった。総合力で日本選手の能力が特別に低かったとは思えない。日本チームが、日本の選手の特徴を生かして、適切に試合をすれば、勝つチャンスは十分あったように思う。 
 ところが日本オリンピック・チームの首脳部は、試合の前から、自分たちの力が一段低いことを前提に戦っていたように思える節がある。 
 開幕前に横山総監督が「全試合引き分ければ勝ち点5になる。そうすれば3位以内に食い込める」と話したという報道がそれである。 
 これも、ちょっと信じがたい話である。 
 ボクシングの試合で傍目には明らかに劣勢な試合でも、セコンドは選手の耳元で「勝ってる。大丈夫だ」とささやき続けるという話を聞いたことがある。サッカーだって「全試合引き分けを狙う」なんて言葉が選手の耳に入ったら、戦う気力もしぼんでしまうのではないだろうか。 
 第1戦で日本は、中国の身長1メートル92センチの長身選手にヘディングと、そのヘディングからの攻撃で2点をとられて逆転された。 
 テレビで見るかぎり、中国の方がテクニックが巧いようには見えなかった。コンディションや気力では、むしろ日本の方が上回っていたようだった。中国はゴール前の長身選手が頼りで、そこに高いボールを合わせる狙いだった。 
 こういう戦法は、互角の力の相手では、攻めているように見えても、なかなか点は入らないものである。高さに対しては、ゴールキーパーがしっかりしていれば、守る方には、そう不安はない。しかし90分の間には守りにミスが出ることもある。だから1点くらいの失点は計算に入れておかなければならない。 
 また、あまりに引いて守り、相手に絶え間ないロビングを許していると、ミスが出る回数も多くなる。 
 したがって、今回の中国のような相手には、むしろ攻めのサッカーをして、味方がボールをキープする時間を長くし、2点はとるつもりで戦った方がいい。 
 ところがクアラルンプールで、日本は、その逆の戦法をとっていた。 
 ぼくはテレビで見ただけだから、現地に行った人が「それは違う。実際はこうだった」と言えば、喜んで耳を傾ける。反論が来るのを楽しみに待っている。 

国際経験不足は誰? 
韓国戦の終了直前に選手交代をした狙いは何だったのか?

 今回のオリンピック最終予選は、6チームによる総当たり戦で、上位3チームがバルセロナへの出場権を得る仕組みだった。こういう方式のときには、フィールド上での戦い以外の要素が入ってきて、駆け引きが面倒になる場合がある。 
 日本は第4戦で韓国と対戦した。この時点で、日本と韓国はともに1勝1引き分け1敗。どちらも勝てばバルセロナ行きの切符を手にする可能性が残る状況だった。 
 試合は韓国が攻勢で、日本は守りに追われていた。 
 守りに追われるような戦法をとらないで、パスをつないでかわして攻めるようにすれば十分互角に戦えた――という考えもあると思うが、ここでは、それはさておいて、日本の選手は実によく頑張って守ったと思う。身体を張った守りで相手のボールを食い止める場面が何度もあり、とにかく0−0で試合終了直前まできた。 
 ところが試合終了の2分前、日本のベンチは、永井に代えて藤吉を出すという選手交代をした。この選手交代の意図がよくわからない。 
 藤吉は交代出場して、よく点をとる選手だから、残り2分で決勝点を狙う賭けに出たのかもしれない。テレビの解説者は、そう言っていた。 
 しかし、守りに守る作戦が成功して引き分け寸前まで来て、日本の守りがリズムに乗っているときに、あえて選手交代をして、そのリズムを崩すことはないように思った。 
 賭けの結果は凶と出た。選手交代の直後に韓国が決勝点をあげ、バルセロナ行きの切符は遠くに去った。
 引き分けではバルセロナに行けないというケースであれば、選手交代でもなんでもして、勝負に出るのは当然である。しかし、この場合は、そうではなかった。 
 日本の最終戦の相手のカタールはこの時点ですでに3勝していて、切符獲得は有力になっていた。したがって最終戦ではおそらく、むきになって戦う必要のない状況になり、日本が有利になる望みは十分あった。そうすれば日本は3位以内に入ることができたはずである。 
 一方、韓国の最終戦の相手は中国で、これは厳しい勝負になりそうだった。韓国は、日本と引き分けでは苦しい立ち場だった。そういうわけで、残り2分まで来て守りのリズムがいいときに、あえて決勝点を徂って選手交代をしたのは疑問だった。 
 この計算にはクウェートもからんでくる。複雑だから説明は省略するが、国際試合は一筋縄ではいかないものである。 
 ともあれ、このような事情を背景に考えると、韓国戦の選手交代の意味がいよいよ分からない。日本の選手は国際経験が足りないという意見も出ていたようだが、国際的な経験が足りないのは、選手の方ではないのではないか、という気もする。
 結果論といえば結果論である。しかしチームの指揮官に問われるのは常に結果なのである。


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