32年間の協会の実力者
32歳で協会の実権を握り、戦後の再建に実力を振るった!
日本サッカー協会から、突然、電話が掛かってきた。
「小野卓爾先生が、お亡くなりになったので、お知らせします」
2代前の日本サッカー協会専務理事、戦後の日本サッカー界の再建に大きな功績のあった長老が、2月20日に故郷の北海道で逝去された報せだった。
「小野卓さん」と呼ばれて親しまれていたし、恐れられもしていた方である。ぼくが創刊号以来、25年にわたって書き続けているサッカー・マガジンのこのページには、1976年までは、しばしば、一時は、ほとんど毎月のように登場していた。
「協会の実力者」というのが、このページで、ぼくが小野卓さんを取り上げるときの代名詞だった。「実力者」というより「ワンマン」と呼ぶべきだったかもしれない。それくらい協会の権力を一手に握って、サッカー界を切り回していた。
1908年(明治39年)生まれ。1933年(昭和8年)に中央大学を卒業し、翌年もう関東蹴球協会の理事。2年後に大日本蹴球協会代議員、その翌年のベルリン・オリンピックに日本代表チームの役員として参加した。
その2年後の1938年(昭和18年)に大日本蹴球協会理事兼名誉書記長になっている。名誉書記長は、おそらく英語の「オナラリー・ジェネラル・セクレタリー」の訳だろう。
「名誉」は「報酬を受けない」という意味である。いまの言葉でいえば、ボランティアの「専務理事」というところである。つまり、協会運営の実権を握ったわけで、そのとき32歳だったはずである。
小野さんは名選手ではなかったらしい。協会の仕事に参画しはじめたのは、学生のころに学連の委員としてだった、という話である。
出身校の中大が強かったわけではない。当時の日本サッカーの中心も関東大学リーグだったが、当時の強豪は、早大、慶大、東大、東京高師(いまの筑波大)などで、中大は2部にいたはずである。
名選手ではなく、有力チームの出身でもない小野さんが、若くして協会の実権を握ったのは、行政の担当者として、抜群の才能と実行力を持っていたからではないかと、ぼくは想像している。
戦争中にスポーツ団体の幹部として軍部に協力したというので、敗戦後は占領軍の「公職追放」に引っ掛かって、一時協会の仕事の表面からは引っ込んでいた。しかし、1951年(昭和26年)に協会の常務理事として復帰、それからは25年間、ずっと協会の「実力者」だった。
実力者ではあったが、小野さんはトップの地位は望まなかった。長い間、竹腰重丸氏など名門大学の名選手出身の方々を表に立てて、その陰で采配を振るっていた。
身を引いたのは1976年。69歳だった。一種のクーデターの結果だったと、ぼくは解釈している。
戦前、戦後にまたがり、戦中、戦後の空白期間を除いて、実質32年あまりの実力者だった。
クラマーを招いたのは?
名選手出身理事の反対を押し切って外人監督を実現した!
今から思えば、数ある小野さんの功績で最大のものは、クラマーさんを招いたことだろう。
1959年(昭和34年)、日本のサッカーは、ローマ・オリンピックの予選で韓国に敗れた。
これは、日本のサッカーにとって「残念」「悔しい」では、すまないことだった。
4年後のオリンピック開催地は、東京に決まっていた。そのために、日本オリンピック委員会は、ローマ大会には、全部の競技種目を参加させることに決めていた。その中でサッカーだけが、ローマへ行けないことになったのだった。日本中が東京オリンピックへ向けて燃えている中で、このままでは、サッカーだけが取り残される心配があった。
東京大会ではサッカーも、開催国として予選なしで出場は出来る。しかし地元のチームとして、国民の前で恥ずかしくないだけのチームを作れなければ、その後、ますます地盤沈下することは目に見えていた。
「これまでのやり方では、東京オリンピックのための日本代表チームの強化は出来ない」
日本のサッカー関係者の誰もが、そう考えた。
ローマ予選敗退が決まった12月20日の夜に、日本サッカー協会は、すぐに常務理事会を開いて、緊急の再建策を協議した。
「外国からコーチを呼ぼう」
これが、小野さんの提案だった。
「ところが、みんなが反対したんだよ」
小野さん自身が後に内緒で、こんな「ぐち」をこぼしたことがある。
反対したのは、主として、かつて名選手、いわゆる「技術畑」の人たちで、外人監督派は「行政畑」の野津謙会長と小野さんだったという。
反対の大きな理由は「お金がかかりすぎる」だった。
当時、外国からプロのコーチを呼ぶのに、ぼくの記憶では年俸1500万円くらいが考えられていたように思う。当時としては大金だった。
「それだけの金額が使わせてもらえれば、外人監督を呼ばなくても強化できる」
技術畑のかつての名選手たちは、こう主張したという。
協会の財政を担当していたのは、小野さんだった。
「お金については、おれが責任を持つ。日本のサッカーに新しいものを入れようじゃないか」
こう小野さんが頑張って、翌年、西ドイツからデットマール・クラマー氏の来日が決まった。
クラマーさんは、日本のサッカーの技術と戦術の考え方を根本から変えてしまった。
そのおかげで、日本のサッカーは東京オリンピックでアルゼンチンに勝ってベスト8に入り、恥をかかないですんだ。それだけでなく、さらにその4年後のメキシコ大会では、銅メダルをとった。
クラマーさんを招く計画にかかわった人は、他にもいる。しかし、いちばんの推進力は、小野卓さんだったと、ぼくは思っている。
全国少年大会の誕生
本栖湖の少年団大会の話に耳を傾けたことから始まった!
「競技会だという必要はありませんよ。少年サッカー・キャンプでもいい。それなら、やれますよ」
今から25年以上前、夏の終わりに東京代々木の日本サッカー協会で、ぼくは協会の実力者、小野卓爾さんと話をしていた。
小野さんは「全国小学校サッカー大会」を開催することを、もくろんでいた。
「子供たちにサッカーを広めなければ、日本のサッカーは伸びない。そのためには小学校の全国大会を開くのが、いちばんいい」という考えである。
しかし当時は文部省の「児童生徒の運動競技の基準」という次官通達で、小学生の対外試合は禁止されていた。だから小野さんの夢見る「全国小学校サッカー大会」を開くのは不可能だった。
「それを、なんとかできないか」というのが、小野さんとぼくの話題だった。
そのころ、日本体育協会のスポーツ少年団は、夏休みに富士山麓の本栖湖で「全国スポーツ少年団大会」を開いていた。これは全国から選ばれた高校生を少年団のリーダーとして訓練するための一種の指導者キャンプだった。一つのスポーツだけの訓練をするのではなく、陸上競技、バスケットボール、富士登山などをつぎつぎに実習させていた。
そのとき、サッカーの訓練を受け持ったのは。当時、順天堂大学助教授だった田中純二先生(現愛媛大学教授)である。いろいろなスポーツの訓練の中で、田中先生の指導がいちばん人気があった。田中先生の名指導で、サッカーをしたことのない高校生たちが、ボールを扱う楽しさのとりこになった。
この田中先生の評判を、ぼくが小野卓さんに紹介した。
「同じように、子供たちを集めてサッカーの楽しさを覚えさせるだけでもいいじゃないですか。ボーイスカウトのジャンボリーは全国大会をやってるんだから、小学校単位でなければ、少年サッカーのジャンボリーだって、やっていいはずだ」
小野さんは、ぼくの話を黙ってきいていた。
「全国サッカー・スポーツ少年団大会」が始まったのはその2年後からだったと思う。「競技会」としてではなく「講習会および指導事業」としてだった。これがいまの「全日本少年サッカー大会」の前身である。
「あのとき、君が本栖湖の話をしたから踏み切れる決心がついた」
と、後になって、小野さんが、ぼくに打ち明けてくれた。
小野卓さんに対して「けちで頑固だ」という評判があった。
この批判は正しくない。
クラマーさんの来日に反対を押し切ってお金を出したように、思い切った決断が出来る人だった。
「サッカー・マガジン」で、実力者批判を繰り返していたぼくの意見も、耳を傾ける度量を持っていた。
十数年前まで、さんざん批判を書いた罪滅ぼしに、忘れられない功績を紹介しておくこととする。
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