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サッカーマガジン 1989年11月号

ビバ!サッカー ニューヨーク発

日本サッカーの変化を知る
全日本ユース、日本女子リーグ、大学の冠化
 

高校とクラブの交流 
長年の懸案を実現した協会と高体連の英断にハットオフ!

 ニューヨークに移り住んで半年以上たち、日本のサッカー事情に、だいぶ疎くなってきた。 
 日本の新聞は、通信衛星経由でファクシミリ送信された紙面がニューヨークで現地印刷されていて、日本と同時に読むことが出来る。サッカー・マガジンも、毎月、送ってくるし、マンハッタンの日本の書店でも売っている。 
 だから情報に不足はないはずだがやはりときどきは試合を自分の目で見ないと、どうもぴんとこない。 
 そういう、ぴんとこない情報を頼りの判断だが、「日本のサッカーも少しずつ変わって来たな」と思わせてくれるニュースが、いくつかあった。 
 その一つは、夏休みの後半に、高校チームとクラブユースが、ともに参加する「全日本ユース大会」が開かれたことである。「これで、ようやく壁に穴が一つあいた。よかった、よかった」とぼくは一人で喜んだ。 
 これは長い間の懸案だった。 
 日本のスポーツは、学校を中心に発展してきて、そのおかげで、いろいろなスポーツが普及し、盛んになった。これは学校スポーツの大きな功績である。 
 しかし、一方で学校のサッカー部には属さないで、民間のクラブで、サッカーをしている若者たちも少しずつ増えてきた。 
 そうなってくると、同じ15歳から17歳くらいの若者たちのチームを、「高校」と「クラブ」に分ける必要があるかどうかが問題になってきた。区別しないで、いっしょに試合をさせた方がいいのではないか、という意見も出てきた。 
 10年ほど前に日本サッカー協会はチーム登録制度を変えて「大学チーム」「高校チーム」「中学校チーム」の種別を年齢別に変えたが、これは学校スポーツが主流の日本では、清水の舞台から飛び降りるような大改革だったといっていい。 
 この改革を担当していた平木隆三さんが「身分制度をやめるんだ」と言ったのを覚えている。これは巧みな言い方である。 
 チーム登録制度は変わったが、それに伴う大会の方は、なかなか実現しなかった。「全国高校選手権」や「高校総体」には、それなりの利点もあり伝統もある。そこへいきなり新参のクラブチームを加えるわけにはいかないからである。 
 「クラブには、クラブ同士の大会をやらせ、レベルアップを待って交流の機会を作っていこう」と、サッカー協会は、ぼくらからみれば苛立たしいほど慎重に、ことを運んだ。それがやっと実現したわけである。 
 高校とクラブの間の壁の上の方に小さな穴をあけたくらいでは、まだ不十分である。逆に穴をあけたために通り抜ける風が渦まきを起こして思わぬ弊害が生じる心配もある。
  しかし、ここでは、とりあえず、サッカー協会の熟慮断行と、これを受け入れた高体連の度量に敬意を表したい。 

女子の日本リーグ 
楽しく試合する機会を増やすのが目的で強化はその結果だ

 「女子の日本リーグが始まる」というニュースも、ニューヨーク印刷の新聞で読んだ。これも結構なことである。ただし――。
 ぼくの読んだ記事には、「女子サッカーが北京のアジア競技大会で実施されるので、日本代表女子チーム強化のために女子の日本リーグを始める」と書いてあった。これには、ちょっと異義がある。
 女子サッカーが今後ますます盛んになって、アジア大会だけでなく、オリンピックの正式競技になることは間違いない――と、ぼくは思う。 
 しかし、リーグ戦をするのは、日本代表の強化のためではない。そこを間違えてはいけない。 
 リーグ戦をするのは、まず第一に選手たちがプレーをする機会を作るためである。 
 スポーツの目的は、まず試合をして楽しむことである。だから楽しく試合をする機会が、できるだけ、たくさんあった方がいい。 
 ところが、日本で盛んな勝ち抜きのトーナメントだと、1回戦で負けたチームは1回しか試合ができない。たった一度の試合が負けで「ようし、この次は」と思うことができないのでは、あまり楽しくないだろうと思う。 
 総当たりのリーグ戦であれば、どのチームにも同じ回数の試合のチャンスがある。負けても、努力し工夫して次に雪辱するチャンスがある。だから楽しい。 
 リーグ戦のもう一つの利点は、同じレベル同士で試合が出来ることである。 
 ニューヨーク郊外で行われたテニスの全米オープンを見に行ったら女子シングルス1回戦で、予選で出場権を得た日本の少女が、世界の女王ナブラチロワと当たった。実力は段違いで、まるで遊んでもらったみたいだった。 
 日本の少女にとっては、いい思い出にはなっただろうが、全部の試合がこうでは、面白くも楽しくもないだろう。リーグ戦なら、強いチームは強いチーム同士、弱いチームは弱いチーム同士で試合をすることができる。日本リーグは、日本でもっとも高いレベルのチームが、たくさん試合をするための機会である。 
 強いチーム同士で試合の経験を重ねるうちに選手の力が伸びてくる。そうすれば日本代表チームの強化にもつながるだろうけれど、これは結果であって、目的ではない。

大学サッカーは何のため?  
冠スポンサーをつけて日米交流を毎年やれないだろうか?

 「もしもし、松本光弘です」 
 ある日突然、勤務先のニューヨーク支局に日本語で電話がかかってきた。日本サッカー協会の役員をしている筑波大の松本先生だった。日本体育協会の仕事で米国に来て、ニューヨークに立ち寄ったのだという。 
 日本の情報を教えてもらおうと、いっしょに晩御飯を食べることにした。 
 「関東大学リーグに冠がつくことになったんですよ。ちょっと、もめましたけど」 
 と松本先生がいう。 
 そういえば、ニューヨークで印刷発行されている日本の新聞にも載っていた。JR東日本がお金を出して関東大学サッカー・リーグのスポンサーになる。これに対して「学生のスポーツを商業宣伝に利用させるのは、みっともない」と反対の声もあったが、賛成多数で押し切ったらしい。声を大きくして反対したのは、大学サッカーでは古い伝統を持つ名門校の長老ではないか、と推測した。 
 ぼくは、賛成でも反対でもない。 
 「武士は食わねど高楊子」とかっこよく構えていても、お金がなくて大学サッカーが寂れる一方では仕方がない。お金を出して、PRもしてもらえるのであれば、それも結構である。 
 しかし、試合をするだけなら、そんなにお金はいらないはずである。 
 大学チームは、それぞれ自分の大学にグラウンドを持っているから、そこで試合をすればいい。新聞やテレビに取り上げてもらえなくても別に気にすることはない。自分たちの楽しみでやっているのだったら、スポンサーなしの方が気が楽である。 
 そこらあたりをつきつめていくと「大学サッカーは何のためか」という大問題になる。 
 米国の大学スポーツ事情は、こうである。 
 フットボールと、バスケットボールは断然の人気スポーツで、プロのリーグと張りあっている。大学の看板であると同時に、入場料とテレビ収入で大学スポーツ全体をまかなっている。 
 野球やサッカーは、普及度はかなり高い。サッカーは女子の方もNCAA(全米大学体育協会)の加盟チーム数でベスト10にはいっている。しかし、観客動員や大学PRの点ではほとんど力はない。 大学サッカーの置かれている状況は、日本と米国はよく似ている。ただ、新しい冠スポンサーのおかげで財政的には、日本の方が恵まれるかもしれない。 
 似たもの同士で――と考えて、ぼくは松本先生に言った。 
 「日米の大学サッカーの交流を毎年やったらどうですか。いろんな意味で有益だと思いますよ」 
 日米大学サッカー交流に、冠スポンサーは、つかないだろうか?


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