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サッカーマガジン 1989年6月号

ビバ!サッカー ニューヨーク発

米国ユースの健闘で士気向上
米国でのサッカーは先祖の国のスポーツ

コロニーのスポーツ  
NYの公園でスペイン語でボールをけっている若者!

 「土曜日にはセントラルパークでサッカーをやってますわよ。ごぞーんじー?」 
 勤め先の新聞社からアメリカ駐在を命ぜられて、いまニューヨークにいるのだが、いっしょに働いている若くて、すてきな同僚が、歌うような調子で教えてくれた。 
 ぼくのアパートは、マンハッタン島の北寄りの広大な公園のすぐ西側にある。 
 公園のあるところサッカーあり、と信じているので、実は着任してすぐの週末に偵察に行って、若者たちが白黒のボールをけって遊んでいるのを見届けていたのだが、そのころのニューヨークは、まだ寒くて、公園のあちこちに雪が残っていた。 
 それが4月になると一気に春が爆発して、公園の桜が満開になり、緑がいっせいに吹き出した。 
 と同時に、芝生の広っぱでボールをけるグループの数も、ぐーんと増えた、というわけである。 
 キャッチボールを楽しんでいる親子もいる。細長いアメリカンフットボールを投げ合っている子供たちもいる。その中で白黒ボールをけるグループの人数も決して少なくない。
  「米国もなかなかサッカーが盛んじゃないか」 
 と、ぼくは大いに喜んだ。 
 ところが――。 
 喜んでばかりは、いられない事実を一つ発見した。 
 それは、サッカーをやっているグループの大部分が、英語ではなくてスペイン語(あるいはイタリア語)を話していることである。 ニューヨークは「人種のるつぼ」といわれている。 
 イングランド系、アイルランド系、ドイツ系、イタリア系などの白人、日本人、韓国人などの東洋人の人びと、メキシコやプエルトリコから来たスペイン語をしゃべる人たち、祖先はアフリカから来た黒人――いろんな人たちが、共通語として英語を話しながら、同時に出身地の言葉も使って、雑然と住んでいる。 
 そんな中で、野球とアメリカンフットボールとバスケットボールは「米国のスポーツ」として盛んである。つまり言葉でいえば「英語」の役割を果たしている。 
 サッカーは少し事情が違う。 
 サッカーは、それぞれの出身の国のスポーツとして、それぞれの国のスタイルを保ちながら盛んなのである。つまり「コロニーのスポーツ」である。 
 新聞に出ているクラブの名前を見ると、それが分かる。 
 「グリーク・アメリカン・アトラス」とか「ポリッシュ・アメリカン・イーグルス」とか「ブルックリン・イタリアンズ」とかいうチームがある。 
 先祖の国のスポーツとして盛んなために、かえって「米国のスポーツ」としては盛り上がらないのでは、ないだろうか――と考えた。 

W杯が近づいた!
イタリア90とUSA94をめざす米国サッカーの近況!

 「90年のワールドカップの切符売出し」――3月末日のニューヨークデイリーニュースという新聞に、こんな見出しで、小さな記事が載っていた。
 「なぬっ!」 
 てなもんである。 
 「1990年にイタリアで開かれるワールドカップの入場券購入の受付けを月曜日にナチオナーレ・デル・ラポーロ銀行で行う。枚数に限りあり。入場券の現物は1990年5月に郵送する」 
  という趣旨だった。 
 12会場の会場別に4枚または5枚が1セットになっていて、値段は72ドルから525ドルまで、と書いてある。 
 1週間後に、イタリア系のその銀行に電話をかけて聞いてみた。
  「ローマ、フィレンツェ、ナポリの3会場の分は売り切れた。他の都市の分は多少残りがある。今後はもう売り出しの予定はない」
 ということだった。 
 ローマの分はない――ということは「決勝戦は売り切れ」というわけだ。イタリア大会まで、まだ1年以上あるけれど「ワールドカップが近い」という気分になってきた。 
 このイタリア大会への出場権を争う北中米の最終予選は、4月にスタートした。5カ国の総当たりで上位2チームが出場権を得る。 米国代表チームは、1950年のブラジル大会に出場したあと、1度も決勝大会に出ていないが、今回は大いに希望を持っている。 
 昨年11月に新チームを編成し、専任のコーチを迎え、南米のパラグアイに強化のための遠征をして2勝し、4月中旬にはマイアミで国際大会を開いて経験を積んだ。これまでになかった周到で、まとまった準備を重ねている。サウジアラビアで2月〜3月に開かれたワールドユースでベスト4に進出したのも、大いに士気を盛り上げた。米国のサッカーは、これから上昇気運に乗るんじゃないか、という気もする。 
 米国代表チームの強化に気合いがはいっているのは、もちろん、イタリアの次の1994年ワールドカップの開催地が米国に決まったからだ。5年後の地元開催で好成績を上げるための準備がはじまっているわけである。 
 この1994年の「ワールドカップUSA」の組織運営もスタートを切った。 
 組織委員会の責任者になったスロット・リテリア氏は、法律家で、1984年のロサンゼルス・オリンピックのとき、ピーター・ユベロス会長の片腕だった人物である。 
 ユベロス氏は、オリンピックを完全民営で黒字にし、プロ野球の大リーグ・コミッショナーになって全球団の観客動員数を急上昇させ、いまはストライキ中のイースタン航空の買収に乗り出している。 
 ワールドカップUSAを成功させるには、このユベロスのような敏腕な人物を起用しなければならない――と以前に、このページで書いたことがあるけれど、本当に、その通りになりつつあるのは面白い。 
 米国のサッカーは、これから大きく動き出すかもしれない。 

下田隊員奮戦の補遺
ニューヨークでの災難をサッカーの縁が救ってくれた

 今回は米国サッカーの近況をテーマにするつもりだったのだが、一項目だけ、またまた、あのコスタリカの風来坊の話を書くことにする。 
 というのは、若くてすてきな、ぼくの同僚が、4月号と5月号のビバ!サッカー!を読んで、
 「いちばん面白い話が書いてありませんね」 
 と批判したからである。 
 順天堂大学OBの下田功君が、国際青年協力隊員になって中米コスタリカへ行き、ユース代表のウエートトレーニングを担当してサウジアラビアのワールドユースに参加したさいニューヨークヘ寄った――というのが、前回までの話だった。 
 なぜニューヨークヘ寄ったかというと、それはサウジアラビアへの入国ビザを、ここの領事館で取るためだった。 
 ところが、来てみて分かったのだが、日本の青年がサウジアラビアにはいるためのビザは、簡単には取れない。
 「1カ月はかかる」といわれて、下田隊員は途方にくれた。チームはすでに現地へ行ってしまっている。
 たまたま、ぼくの同僚が下田君の友人で、下田君がぼくの記事の読者だったものだから、ぼくが助けてやることになった。 
 「サッカーだ! サッカーのためだと言え」 
 というのが、ぼくのアドバイスである。 
 コスタリカに電話してサッカー協会に動いてもらい、ニューヨークの日本総領事館とサウジアラビア領事館へ行って陳情した。 
 一方で、ぼくは日本サッカー協会へ電話とファックスを入れて、国際サッカー連盟やサウジアラビアのサッカー協会に連絡してくれるよう援護を頼んだ。 
 コスタリカのサッカー協会の手紙を見せたのが領事館で威力を発揮し、一方で日本サッカー協会が機敏に、また親切に手配してくれたのが功を奏して、ビザは奇跡的に1日で下りた。 
 しかも、サウジアラビアに着いたら「おお、お前がシモダか。待っていた」と向こうの関係者が出迎えてくれたという。 
 やっぱり、ビバ!サッカーなのである。 
 ニューヨークでは、下田隊員にもう一つの災難があった。 
 1週間で128ドルの安ホテルに泊まったら、その晩の夜中に火事が出て、命からがら屋上まで逃げて救出された。それで翌日から、ぼくのアパートに転がり込んで、ビザが出るまで滞在した。 
 火事がなければ、ぼくのところに転がり込むわけがなく、ぼくがビザの件で親身になって手助けすることは、なかったかもしれない。 
 これもサッカーの縁である。 
 帰国してから礼状が来た。 
 「ぼくがニューヨークで火事にあった話が当地の新聞にでかでかと載っていました。コスタリカのユースは、よく頑張ったと賞められました」 
 下田隊員は、すっかり有名になったようだ。


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