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サッカーマガジン 1989年4月号

ビバ!サッカー ニューヨーク発

アメリカは広い。南の方は…
コスタリカからの珍客は、日本人コーチ

びっくり、アメリカへ!
地球はまるくアメリカは広い。だからサッカーを……

 勤め先の新聞社で「アメリカ駐在」を命ぜられ、いま、ニューヨークにいる。
 二つの新聞でまる30年間、スポーツ記者生活をし、運動部を離れてからもスポーツ関係の仕事を担当していたので、まさか、この年になって海外駐在になるとは思ってもいなかった。
 事情を知らない人は、どう言っていいか分からないので、当たりさわりのないように
  「いやあ、おめでとう」 
 と言ってくれて、あとは口をもごもごさせていた。
 多少、事情を知っている友人たちは 
 「たいへんだなあ、なにか悪いことでもしたのか」 
 と同情してくれた。
 例の友人どもは、 
 「そろそろ、日本にいたたまれなくなるころだと思っていたが……」 
 と口が悪い。 
 「でも米国とはね。ちょっと方角が違うんじゃないか?」
 言いたいことは分かっている。 
 サッカーが盛んでない米国に行くなんて「ざまあ見ろ」というつもりに違いない。 
 だから、ぼくは言ってやった。 
 「おれはコロンブスの学説を信じてるんだ。つまり、地球はまるいということをね」 
 コロンブスは、西へ西へと行けばインドに着くだろうと思って航海した。 
 ぼくは、東へ東へと進めば、1990年の6月ごろには、イタリアに着くだろうと思っている。 
 そのころイタリアでは、4年に1度の世界のサッカーの祭典、ワールドカップが盛大に開かれているはずである。 
 さらに、もう一つ付け加えると、ぼくは「アメリカ」というところは非常に広い地域だと理解している。北半分では主として英語を話し、サッカーは、それほど盛んではないが、南の方に行くとスペイン語やポルトガル語を話す人がたくさんいて、サッカーに熱狂しているはずである。 
 つまり、駐在を命ぜられた「アメリカ」は、米国すなわちUSAだけでなく、ラテンアメリカすなわち中南米を含んでいると、ぼくは勝手に決めこんでいるわけだ。 
 「だけど世の中、そんなに甘くないよ」 
 と友人は、半ばうらやましそうな、半ば疑わしそうな顔で言った。 
 「新しい仕事場に行って、そんな広い地域を勝手に飛び回れるほどの時間と財布の余裕が、お前にあるとは思えないね」 
 ごもっとも――。 
 ぼくも、それくらいは百も承知している。 
 だけど、長い間スポーツ記者として勝手なことをさせてもらってきたのだから、ニューヨーク駐在になっても、なるべくたくさんスポーツの仕事をしたいし、勝手に飛び回らせてもらいたい――と夢見ているわけである。 
 そうなれば、これまで通りに、この誌上で「ビバ!サッカー!」と叫び続けることが出来るはずである。

中米からの珍客 
青年協力隊員として活躍中のサッカーマンが突然来訪 

 セントラルパークの西側にあるアパートに引っ越したその晩に、思いもかけない珍客が訪ねて来た。 
 下田功君。5〜6年前に順天堂大学で活躍していたサッカー選手である。いまは中米のコスタリカという国に、青年海外協力隊の隊員として派遣されている。 
 ぼくは、まったく面識がなかったのだが、たまたま、ぼくと同じオフィスで働いている若くてすてきな同僚の友人だった。 
 コスタリカからサウジアラビアに行く途中にニューヨークに立ち寄り、その若くて、すてきなぼくの同僚から「牛木さんといっしょに働いている」と聞いて「あのビバ!サッカー!の牛木さんならぜひ会いたい」と訪ねて来てくれた次第だった。「ビバ!サッカー!」のおかげで、ぼくも少しは名を知られている。 
 さて、ぼくの新居で深夜まで飲みながら聞いた話が、なかなか面白かったので、その一端を紹介しよう。 
 順天堂大学を卒業しながら、なぜ学校の先生にならないでコスタリカへ行ったのか? 
  「はじめは高校の先生になるつもりで在学中に教育実習に行ったんです。でも、そこで現在の高校教育のあり方に幻滅を感じて……」 
 そこで外務省の外郭団体の国際協力事業団が派遣する青年海外協力隊に応募した。 
 大学で専攻したウエート・トレーニングの専門家として採用され、国内で研修を受けたあと6週間、メキシコで語学実習をし、86年12月にコスタリカに派遣された。コスタリカの受け入れ団体は政府スポーツ局、配属されたのはコスタリカ大学だった。 
 配属されたのはいいが、実は大学であまりすることがない。 
 学内の小さなジムを週3回借りてウエート・トレーニングの指導を受けに来る学生を待ったが誰も来ない。 
 仲間の柔道の先生に頼んで柔道の選手たちに来てもらったが、たいていは1度、顔を出してやめてしまう。練習が嫌い、というよりも、ウエート・トレーニングの必要性があまり理解されていなかったらしい。 
 「続けて来てくれたのは、たった3人。でも、そのうちの1人が後でソウル・オリンピックの柔道代表になりました」 
 そうこうしているうちに、公開講座ではあったが、大学の授業で3カ月間、ウエート・トレーニングの講義をすることができた。 
 その評判を聞いて別の大学からは正規の講義の依頼が来た。 
 と書くと比較的とんとん拍子のようだが、本人にとっては、青年協力隊にはいってから習ったスペイン語で講義をするのだから、なかなか、たいへんだったらしい。 
 異国で意欲的に仕事を開拓していった下田君の努力はたいしたものだと感心した。 
 だが話はこれでは終わらない。このあとサッカーがからんできて、話はますます面白い。

日本人コーチの奇跡 
コスタリカのワールドユース進出に下田功君が貢献!

 青年海外協力隊員の下田功君がニューヨークへ来たのは、サウジアラビアに行く入国査証(ビザ)を取るためである。 
 なぜサウジアラビアに行くかといえば、ワールドユース大会に参加するためである。 
 日本代表ユースは予選で負けてしまったのに、日本人の下田君がなぜ参加するのかといえば、下田君はコスタリカのユース代表のアシスタントコーチだからである。 
 下田君がコスタリカの大学でウエート・トレーニングの指導をして1年たったころ「サプリサ」というクラブから「サッカーのウエート・トレーニングの指導をしてくれないか」と依頼が来た。 
 「サプリサ」は、日本でいえばプロ野球のジャイアンツみたいな人気チームだそうだ。 
 「サプリサ」での仕事は、あまりうまくいかなかったのだが、それでも仕事の内容を評価してくれた人がいて、今度はコスタリカ・サッカー協会から「ユース代表の筋力トレーニングを担当してくれ」と指名された。 
 ここまで来ると、下田君への風当たりも強くなってきた。 
 この国でも、サッカーは唯一の人気スポーツであり、名誉と金の付きまとうスポーツである。そこヘサッカーの弱い国の風来坊が割り込んだのだから、足を引っ張られるのは当然である。 
 しかし、地元の新聞などに出た批判には見当違いなものが多かった。 
 「筋肉隆々のサッカー選手に名選手はいない」 
 「筋肉ばかり鍛えたら身体が重くなって敏捷性がなくなる」 
 これは、ウエート・トレーニングについての知識のない、まったく間違った批判である。
  サッカー選手に対するウエート・トレーニングは、ボディビルとは違う。
 最新のスポーツ科学の理論にもとづいて、サッカーに向いた身体作りをするためのものである。 
 だから専門の知識を持った専門のコーチの指導でやらなければならないのだが、そういう点は、なかなか理解してもらえなかった。
 だが、このような批判の嵐も、コスタリカ・ユース代表チームの実績によって吹っ飛んだ。 
 ワールドユース予選の1次リーグは3勝1引き分け、2次リーグでは米国に3−1、キューバに4−1で勝ち、メキシコも3−0で破った。 
 このメキシコは、後になって年齢制限を超えた選手を加えていたことが分かって、問題になったチームである。 
 コスタリカは、サッカーの盛んな国だが、人口250万の小国だから中南米地域の中でも、なかなか勝てないでいた。それが史上初めて世界のタイトルをかけた大会へ勝ち抜いた。国中がびっくり仰天して、わき返り、下田君のウエート・トレーニングは、ますます株が上がった。 
 その下田君が、ひょっこりニューヨークのぼくを訪ねて来たりする。 
 だから「アメリカは広い。南の方にはスペイン語を話す人たちが、たくさんいて……」と、ぼくは言うわけである。


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