笹浪昭平さんの功績!
読売クラブを創設し、日本のサッカーを改革した先見の明
世界のあらゆる表彰の中で、もっとも公正で誤りのないサッカー大賞の選考を、今回は非常に厳粛な気持で行っている。というのは、ぼくが1988年日本サッカー大賞の候補に考えていた「読売サッカークラブ」の事実上の創設者、笹波昭平さんが、11月29日に急逝されたからである。まだ61歳だった。
「ナミさん」の愛称で親しまれていた笹浪さんの名前を、多くの読者はご存知ないかもしれない。
しかし、日本のサッカーの底辺が現在のように広く、確固としたものになったのは、実はナミさんの功績によるものではないか、とぼくは思う。もちろん、これは一個人だけの功績ではないが、ナミさんの功績は、質の点で高くユニークだった。
いまから20数年前、1964年の東京オリンピックが終わったころ、笹浪さんは日本テレビの運動部の部長職だった。
「オリンピックのあとの日本のスポーツをどうしたらいいか」
と、笹浪さんは考えた。
「世界のスポーツであるサッカーを、日本でも、プロ野球に並ぶプロのスポーツにしたい」
考えるだけなら、当時、若輩のぼくも似たようなことを夢見ていた。しかし、笹浪さんが偉かったのはそれをすぐ実行に移したことである。
当時の日本サッカー協会の会長だった野津謙氏、協会の実権を握っていた小野卓爾氏を連れ出して、日本テレビと読売新聞社のオーナーである正力松太郎氏に会わせた。「プロ野球の父」といわれている大正力に「プロサッカーの誕生にも力を貸して欲しい」と依頼してもらうためだった。
この話は前にも書いたことがあるけれど、要するに、これが「読売サッカークラブ」誕生の発端だった。
大正力に突破口を開いてもらい、当時、日本テレビの社長だった小林與三次氏(現在、読売新聞社社長)に推進力になってもらって、読売サッカークラブを創設し、笹浪さんは自ら初代の事務局長になった。
笹浪さんの卓見は、まずグラウンドを確保したことだった。よみうりランド周辺の土地に目をつけ、多摩丘陵を切り開いて4面のフィールドを作った。
その上でクラブ組織のチームを作って東京都リーグの2部からスタートした。同時に少年サッカースクールを開いて、少年からトップまでをつなぐサッカーの普及とレベルアップの道を作った。
こういう考え方と実行力は、当時の日本のサッカーでは、画期的なことだった。
笹浪さんは、日本のサッカーのために、まずモデルとなる井戸を掘ったものだと思う。
いま、多くの人が、その井戸の水を飲んでいるが、井戸を掘った人の功績が忘れられそうなのが残念である。
そこで、笹浪昭平さんのご冥福を祈り、ここに謹んで「日本サッカー大賞」を追贈したい。
読売クラブの5冠!
少年、少女から天皇杯まですべてのタイトルを独占した!
わがサッカー大賞は、表彰状もトロフィーもなく、もちろん賞金もなく、ただその業績を誌上に記録するだけではあるが、選考に当たっては広く世界の隅ずみにまで目を配り、過去を振り返り、未来を見通して灰色の細胞を回転させている。
さて今回は、大賞の候補として5冠をとった読売サッカークラブを考えていた。
「なに、5冠? 日本リーグでもたもたしているチームが、どこでそんなに活躍したんだ?」
視野の狭い友人が。たちまち異議を唱えたが、ぼくは日本代表チームや日本リーグだけでなく、隅ずみにまで目を配っている。
では説明しよう。
そもそも――。
日本サッカー協会のチーム登録には5つの種類がある。
第1種は「おとなのチーム」である。日本リーグや大学のリーグのチームはみな第1種に登録している。この第1種の選手権は天皇杯だ。1988年1月1日、この天皇杯で優勝したのは読売クラブだった。
第2種は「ユースのチーム」である。ここに登録するチームは、満19歳未満の選手で構成されていなければならない。ひらたく言えば、高校生の年齢相当のチームであるが、高体連所属の「高校チーム」とは限らない。
第3種は満16歳未満、つまり中学生年齢相当のチームである。これも中体連所属の「中学校チーム」とは限らない。「ジュニアユース」と称するクラブチームも第3種である。
この第2種と第3種には、一本化された全国タイトルはなくて、高校、中学校、クラブユース、クラブジュニアユースの大会が、それぞれ別に開かれている。
読売クラブの第2種のチームは夏に河口湖で開かれたクラブユースの全日本選手権で優勝した。
第3種のチームは白馬で開かれたジュニアユースのクラブ選手権で優勝した。
ともに日本一である。
同じ年齢の高校チーム、中学校チームとタイトルを争わないのは残念だが、統合したタイトルがないのは、日本サッカー協会の問題である。
第4種は13歳未満の少年で、これは、夏の全日本少年サッカー大会で、読売クラブの少年チームが優勝した。
第5種は女子で、これも全日本女子サッカー選手権で読売クラブのベレーザが優勝した。
そういうわけで、1988年の1年間に読売クラブは5種別のすべての部門で日本一になった。
これはクラブ組織の成功であると思うので「読売クラブ」という組織に大賞を授与しようと思ったのだが、考えてみれば、この組織の土台を作ったのは笹浪昭平さんである。だから今回の大賞はナミさんに贈ることにした次第である。
世紀の泥んこ試合!
殊勲は前年のトヨタ杯。技能オスカー、敢闘は登山隊員!?
「でも読売クラブの5冠のうちで天皇杯は前年度のタイトルじゃないか」
と友人が官僚的なことを言う。だが、わがサッカー大賞は、功績を明らかにすることが目的であって、その趣旨にかないさえすれば、あとは自由自在である。
たしかに、1988年元日に決まった天皇杯は前年度のタイトルではあるが、1年前のビバ!サッカー!の締め切り後のことだった。権威ある大賞の選考は、こちらの都合に合わせて行うので、協会や政府のカレンダーに、わずらわされることはない。
そこで、今回の殊勲賞には、1年前のトヨタカップの雪中の激闘を選ぶことにした。欧州代表のFCポルトと南米代表のぺニャロールが、降りしきる雪の中で泥まみれになって延長戦を戦った、あの試合である。
あの試合は、いろいろな意味で記録に留めておきたい試合だった。
何よりも、あの雪と寒さと泥の中で、欧州と南米のプロフェッショナルが、最後まで秘術を尽くして延長戦を戦い抜いたことを銘記したい。
もし、あれが他の国際試合のようなエキジビションだったら、彼らはあんな形相で必死になって戦うことはなかっただろう。プロサッカーの世界一を賭けたタイトルマッチのすばらしさを、ぼくたちは、あの試合に見ることが出来た。
さらに、あの泥んこのフィールドで、懸命になってボールを浮かせ、ボールを転がし、相手を抜こうとした選手たちの技術の高さに敬意を表したい。
悪コンディションだから気力と体力の勝負だなんて軽がるしく言うもんじゃない。雪の中にも、泥の中にも技術があることを、あの試合は教えてくれた。
あれは技術と闘魂が一体となった試合だった。もちろん、暖かい好天に恵まれ、すばらしい芝生のフィールドに恵まれたら、また別の見事な技術と戦術による試合を見ることが出来たに違いない。
しかし、あんなにすばらしい泥んこ試合を見る機会はめったにないので、国立競技場の記者席で凍えそうだったけれど、あのトヨタカップの試合に殊勲賞を贈ることにする。
技能賞は日産のオスカー選手に贈る。ワールドカップにも出場したブラジルの名選手が来日2年目、日本リーグ連戦連勝に貢献している。
敢闘賞は三国友好チョモランマ登山隊の小池英雄隊員に贈る。「登山隊員になぜ?」と思われる方は、7月号のビバ!サッカー!を読み返していただきたい。
小池隊員は世界最高峰(英語名エベレスト)のベースキャンプ、標高5150メートルで試合をした。これを日本人の最高記録として、ぼくがここに公認する。
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