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サッカーマガジン 1988年7月号

ビバ!! サッカー!! ワイド版

世界で“最高”のサッカー試合!
標高5150メートルで見た三国友好のプレー 

カトマンズから山中ヘ
ネパールの山奥でも子供たちは河原でボールをけっていた

 ありました! ありました! ヒマラヤの山の中にもサッカーがありました! 人類の行くところ必ずサッカーがあるのです!
 ――とぼくは、かなり昂奮している。先月号に続いて山の話である。 
 「北極と南極とヒマラヤの高地にはサッカーがないだろう」 
 と先月号に書いたのだが、これは大きな間違いだった。世界最高峰チョモランマ/サガルマタ(エベレストのことである)のふもとでも、ちゃんとサッカーがあった。あったどころか、日本人も出場して国際試合をやっていた。 
 それをご報告したいのだが、まあ順を追って聞いていただこう。
 5月5日の子供の日にテレビをご覧になった方も、たくさんおられると思うが、この日に日本、中国、ネパールの三国合同登山隊が南北両側から世界最高峰に登り、互いに反対側に下山する交差縦走を達成した。 
 三国隊のほかに日本テレビ隊3人がカメラを持って登頂して頂上からのテレビ生中継も行った。 
 つまり、先月号で紹介したヒマラヤ登山の大計画が見事に成功したわけである。 
 さて、この登山を応援した新聞の担当者として、ぼくは北側ベースキャンプまで視察に出かけた。そしてその機会に、ヒマラヤの山の中で雪男ではなく、サッカーを探したわけである。 
 東京を出発したのが4月10日。まずネパールの首都カトマンズに行って登山協会や政府や大使館にあいさつをして、14日にカトマンズを出発、いよいよ山登りである。 
 同行はまず日本山岳会の今西寿雄会長。32年前に世界に14しかない8000メートル以上の山の一つマナスルに世界で初めて登った方である。三国友好登山隊の日本隊総隊長だ。 
 次に日本山岳協会海外委員長の神崎忠男氏。世界最高峰への登山隊参加はこれで3度目のベテラン登山家である。過去2回(南と北から各1回)は隊員として登ったが、今回は三国の総指揮部員として加わった。 
 3人目は山好きのお医者さんの中島茂喜氏。73歳の今西総隊長と登山ドシロートのぼくの健康を心配して付き添って下さった。 
 さてカトマンズから峠を越え、スンコシ川をさかのぼって中国ネパール友好道路を、まず四輪駆動の車で上がっていく。途中に、10キロばかり完全に道路が崩れ去ったところがあって、そこは山の中の道を歩きである。 
 荷物はポーターが背負ってくれるので、この辺りは鼻歌まじりの気楽なハイキング気分だ。 
 山道を登り降りしているうちに河原に出て、ちょっと徒歩するところに出たとたん、ありました、ありました。 
 石ころだらけの河原で子供たちがサッカーの試合を楽しんでいた。 
 ただし、ここは山に囲まれた中の村の近くではあるが、高度は2000メートルくらい。空気が薄いための影響はあまりない。だからサッカーのような激しい運動をしていても不思議はない。 
 しかし「これ以上高いところにはサッカーはないだろうな」と、そのときは思っていた。  

シガールの町で 
高度4000メートル以上のチベットの町にも少年サッカーはあった

 ネパール側のコダリというところで、深い谷間にかかった石の橋を渡ると中国領のザンムーという村である。ちゃんと税関や入国管理事務所がある。標高2700メートル。ここで1泊して翌日また山道を四輪駆動のランドクルーザーで上がっていく。 
 見降ろせば千丈の谷底。見上げれば千丈の山の頂き。崖っぷちの石ころ道をはうように上がっていく。景色はさながら西遊記の世界ですばらしいが肝は冷える。 
 標高3700メートルのニラムで2泊して高地に体を慣らして、またジープで山を上がっていく。標高5000メートルの峠を越えてチベット高原にはいると緑はまったくなくなって、岩と土ほこりの荒涼とした山道だ。このへんは住民がいないから、サッカーはもちろんない。 
 チベット側のシガールに着く。標高4300メートル。富士山頂よりかなり高い。ここは郵便局や小学校もあるちょっとした町である。高地順化と待ち合わせのために3日間滞在した。 
 幸いに高山病にはならなかったがここらあたりにくると、さすがに空気の薄いのがこたえて、ちょっと階段を急ぎ足で登ると息が切れる。トレーニングと称して近くの150メートルくらいのはげ山に登ったら頂上ではしばらく息もたえだえだった。4300メートルのところから登ったのだから小さな山とはいっても海抜は4450メートルである。ぼくの登頂最高記録だ。 
 それはともあれ、ぼくは自分自身の高地対策で頭がいっぱいになっていてサッカーのことは、すっかり忘れていた。 
 ところが3日目。 
 町を散歩していたら同行の中島ドクターが、 
 「牛木さん、牛木さん。サッカーをやってますよ」 
 と教えてくれた。 
 道の向こうから小学校帰りのチベットの子供たちがボールをけりながらやって来る。 
  「これこそ、世界最高所での少年サッカーではあるまいか」 
 ぼくは新発見に小躍りして写真を撮った。ついでに子供たちとボールの取りっこを試みたが、これはたちまち息切れして、さまにならなかった。 
 後日、チベットの首府のラサで地元の体育委員会の人にきいたら、4000メートル以上の高地でも、男の子は小学校でみなサッカーをやっているそうだ。 
 「ただしチベットのサッカーのレベルはまだまだです」 
 と、その人は言っていた。  

チョモランマ国際大会
世界最高峰のベースキャンプで三国友好のサッカー試合!

 シガールを出て、中国ネパール友好道路からはずれてヒマラヤ山脈のふところの中に分け入る。石ころばかりの山腹をじぐざぐにはい上がり、はい降り、5000メートルの峠を越えてあえぎ、あえぎ進むと世界最高峰から出ているロンブク氷河の下流の河原に出て、その河原沿いにチョモランマのふもとのベースキャンプへの道がある。道といっても形ばかりではあるが、ネパール側の登山と違って、チベット側はベースキャンプまで四輪駆動の車で行くことができる。 
 ロンブク河の広い河原に30余りのテントを張って、日本、中国、ネパールの三国隊員が生活し登山の基地にしている。これがベースキャンプである。 
 正面の奥深くの天空を壮麗な岩山が、ひときわ高くさえぎっている。これが世界最高峰、中国名チョモランマだ。 
 ぼくたちがベースキャンプ入りしたときは、ちょうど第2次登山活動が終わり、全員が上部から降りてきて最後の登山活動に備えて休養中だった。
 2月〜3月の登山初期には強風と寒さがひどかったらしいが、このころはかなり春めいてきて、時どき雪はあったけれど快適だった。ぼくたちのベースキャンプ滞在は4月20日から1週間、そのあとラサ経由で北京に行き、総指揮部にはいることになっていた。
 1週間の滞在中のある日、テントの外が騒がしいので、すき間からのぞいてみるとネパール人の隊員が羽毛服のままでボール遊びをしていた。「サッカーだな」と思って出てみたら、ボールは白黒のサッカーボールだったが、手でつかんで投げ合っていた。サッカーをしようとしたが、石ころだらけの河原だから、うまくいかなかったらしい。 
 その日の夕方。 
 中島ドクターが「サッカーの試合をやってますよ」と知らせに来た。
 テント村のそばを川幅100メートルくらいのロンブク河が流れている。上流は氷河だが、この辺りは夏には水が流れている。 
 このころは表面は全面凍っていてその上に雪がざらめ状に凍りついていた。そのために表面が完全に平らで、しかも滑らない。昼間、石ころ河原でサッカーを断念した隊員たちが河の上でやればいいことに気が付いたらしい。 
 緑の羽毛服のネパール隊員と赤い羽毛服の中国隊員の試合だった。ネパール隊員はシェルパ族、中国隊員はチベット族。どちらも高地民族である。平地の半分の空気の中を平気で走り回っている。「たいしたものだ」とぼくは舌を捲いた。 
 入り混ってボールを追っている中に、1人だけ黄色い羽毛服の日本人隊員がいた。しかもその選手がいちばんうまい。「本当だろうか」とぼくは目をこすった。 
 世界最高所の国際サッカーで活躍した日本選手は小池英雄君。静岡県浜松出身で高校のときはサッカー選手だったそうだ。


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