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サッカーマガジン 1988年2月号

ビバ!! サッカー!! ワイド版

サッカー大賞’87は加藤久選手に
殊勲、敢闘は与那城、武田!
            技能はリーグ運営に

加藤久選手に大賞を!
守りの日本代表での労苦を慰め、業績を後世に伝えよう!

 ことしもわがサッカー大賞を選考する季節がやってきた。
 「1年を振り返って表彰するにはまだ時期が早いよ。天皇杯も高校選手権もまだ残っているんだから」 
 友人が、もっともらしい意見を述べたが、公正無私で権威あるわが大賞は、暦の上の区切りなどにはとらわれない。日本のサッカーのすぐれた業績を歴史に止どめておこうという高い志によって選考するのだから、その志にかないさえすれば融通自在である。 
 「じゃじゃーん! 1987年度の輝く日本サッカー大賞は日本代表サッカーの主将であり、守りの中心である加藤久選手に決定しまーす!」 
 ぼくは誰に相談することもなく、公正な独断と偏見にもとづいて、まずグランプリを発表した。 
 友人は、意見を述べる機会を与えられなかったから不満である。
 「日本代表チームは結局ソウル・オリンピックの出場権を得られなかったじゃないか。敗れたチームの主将を表彰するのか」
 よろしい。説明しよう。
 わが権威ある大賞は、優勝したチームや選手を必ずしも表彰するとは限らない。優勝すればカップやメダルをもらったはずだから、その上に賞をやる必要はない。 
 しかし、はなやかに取り上げられなかったけれども、記録に止どめておくに値する業績があれば見つけ出して世に出すのが、仕事でなければならない。 
 だから、わがサッカー大賞は賞状もトロフィーもなく、ただ誌上で価値を認めるだけだけれども、日本のサッカー界でもっとも権威ある賞として、心ある人は発表を待兼ねているはずである。 
 さて日本代表チームにおける加藤久選手の功績の話に戻ろう。
 石井義信監督の率いる日本代表チームは、守りに重点のチーム作りと作戦でオリンピック予選を戦った。 
 この狙いは思いのほかにうまくいき、あと一歩でソウルに出られるところまでいったのだが、最後に地元で中国に敗れて挫折したのはご存知の通りである。 
 そういうわけで敗れた日本代表チームや石井監督に大賞をやるわけにはいかないのだが、加藤主将なら話は別だと、ぼくは思う。 
 加藤主将が、石井監督の守りのサッカーを遂行するために、守りの中心として頑張ったことは、誰しも認めるだろう。 
 石井監督が守りのサッカーに勝機を見い出そうとしたのは、加藤主将の頑張りと判断力とリーダーシップが、日本選手の中でもっとも信頼できると考えたからに違いない。そして、あと一歩のところまでその狙いが成功したのは、まったく加藤主将のおかげだとぼくは信じている。守りは辛い仕事である。その守りを指揮するのは、さらに苦しい仕事である。
 その仕事を立派にやり抜いたことに敬意を表して、歴代の表彰者のリストに加え、これを後世に伝えたいと思うわけである。

読売クラブの2冠
加藤久選手、与那城監督、武田選手を記録に止どめておこう

 加藤久選手に大賞をやりたいと思う理由は他にもある。
 ご承知のように、毎年サッカー記者の投票で行われている年間最優秀選手の表彰を加藤選手は1度も受けていない。その埋め合わせにサッカー大賞を授与したいという気持があるわけである。 
 ぼくの考えでは、加藤選手は、これまでに3度は受賞のチャンスがあったのに1度も選ばれていない。 
 残念ながら、いまの新聞社やテレビ局には、サッカーを見る目のある記者が少なく、得点をたくさん挙げた選手、つまり得点王になった選手にばかり票が集まる始末である。 
 実をいうと、この年間最優秀選手の制度は、ぼくが若いころに先輩記者の反対を押し切って始めたもので、そのころ、関西のサッカー記者の権威者だった朝日新聞の大谷四郎さんや毎日新聞の故岩谷俊夫さんは「記者投票でちゃんと選べるかな」と心配されたものだった。
 「大丈夫。1人、2人へんなのがいても、多勢で投票すれば、正しい選び方をしますよ」 
  と、ぼくは主張して、初期のころは、その通りだったのだが、サッカーが盛んになり、サッカー担当記者の数が増えるにつれて、おかしなことになってきた。 
 サッカーは分かりにくいスポーツではない。ちゃんと見てれば、誰がチームに貢献しているかは、シロート目にも分かるはずである。それが、こういうことになるのは、サッカー記者として投票権を持ちながら、ほとんど試合を見に来ていない人が多いからである。中には競技場に来ても吹きっさらしの記者席をきらって控え室でストーブに当たっていて試合を見ない手合いもいる。 
 とまあ、いささか「いまどきの若いものは……」という愚痴みたいになっちゃったが、これもぼくが歳をとったせいだろうか。 
 とにかくこういう権威のない連中が投票する賞をもらうよりも、全国の目のあるファンを代表して選考するわがサッカー大賞を贈れば、埋合わせてお釣りがくるというものだ。 
  ところで、ことし、加藤久選手を表彰するのは、日本代表チームでのご苦労とともに読売クラブの守りのかなめとしての功績をも合わせて評価したからである。 
 読売クラブは、1987年に天皇杯と日本リーグに優勝した。この2冠はもちろん、今回の選考の対象であるが、先に述べたように、単に優勝しただけでは、この権威ある大賞を授与するわけにはいかない。歴史に残すに足る画期的な業績を伴っていなければならない。そういうわけで今回は、チームそのものは表彰しないことにする。 しかし、与那城ジョージが監督1年生で優勝を勝ちとったのは珍しいことなので、代表して殊勲賞を与えることにしたい。 
 ついでに新人の武田修宏君の活躍に対しても、敢闘賞を出しておく。武田君は、ほかにもいろいろ賞をもらったようだが、本当に権威のある賞は、賞金もトロフィーもない、このビバ!サッカー!の表彰であることを銘記してもらいたい。

選手登録改革に技能賞 
ブロ選手登録の拡大にすばやく踏み切ったのは巧みだった

 「技能賞は日産の水沼貴史を推したいな。日本リーグではアシストの新記録を作ったし、なんたって日本代表からはずされてたのに、復帰してたちまち攻めに欠かせない選手として活躍したのは痛快だったよ」 
 友人は、水沼選手が一時、日本代表から外されていたのは、指導者に目がなかったためだと固く信じているので、その鼻を明かしたい気持ちである。
 「でもタイトルをとるのには結びつかなかったからな。まあ今後に期待することにしよう」 
 と、ぼくは冷たく突き放した。
 「それじゃ、何か別の候補者があるのか」と友人。 
 それが大あり。平凡な発想では考え付かない候補をぼくは用意している。 
 「じゃじゃーん!意外な技能賞候補として、日本サッカーリーグの運営当局を推すものでありまーす」 
 「日本リーグの運営になにか目覚ましいことがあったかな」
 いや、これは日本のサッカーの過去を振り返り、将来を見通して考えなければ分からないことである。 
 日本サッカー協会は、1986年に、日本体育協会のアマチュア規定改正を待兼ねるようにして選手登録に新しい制度を導入した。 
 体協のアマチュア規定改正の画期的意義については、1年前のサッカー大賞選考のときに説明し、体協のアマチュア委員長の広堅太郎氏にも賞を贈ってあるから読み返していただきたい。 
 さて、そのとき、日本サッカー協会は選手登録に、アマチュアとノンアマチュアとライセンスプレーヤーの3種類を設けた。 
 名称と分け方はあいまいで、意味が分かりにくいが、要するにプロの登録を認め、西ドイツから帰って来た奥寺康彦選手に古河への復帰の道を開いたわけである。 
 ところが、おかしなことに、プロ登録を奥寺選手と日産の木村和司選手の2人にしか認めなかった。 
 これは筋の通らない話で、ブロかどうかは、その選手と所属クラブの契約の上の問題で、協会が倫理的な観点から認めるかどうかという種類の事柄ではない。さらに奥寺選手はともかく、木村選手と他の日本リーグのトップクラスの選手とどう違うのかはまったく理解に苦しむことだった。 
 しかし、過ちを改めるにはばかることなかれである。 
 1年たたないうちに方針は変更され、現在の日本リーグでは、ライセンスプレーヤー、つまりプロが軒並み登録されている。 
 「この変わり身の早さは技能賞ものだろう」 
 「それはリーグというより協会の方の問題じゃないの」
 「だが、推進したのはリーグ関係者だとぼくは見ている。どっちだっていいんだけど、まあ、正しい方向に変わりつつあるんだから評価しておきたいね」 
 ぼくの主張に友人は「あまり面白くはないな」という顔をした。


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