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サッカーマガジン 1988年1月号

ビバ!! サッカー!! ワイド版

出された結果に責任はとるべき
雨の日は守りに不利!健闘した選手には不運

石井全日本の不運
守りのサッカーに雨は不利。最後は幸運にも見離された!

 あの悲しみの日、1987年10月26日に地下鉄の駅から国立競技場まで降りしきる雨の中を歩きながら考えた。「この雨は日本に有利だろうか」
 常識的には雨は地元チームに有利である。雨の中で試合をするのは、どちらも好きではないだろうけれど遠征チームの方が疲れている上にフィールドに慣れていないから、余計にいやなはずである。2年前のワールドカップ予選の朝鮮民主主義人民共和国との試合のときに「日本の雨が味方した」こともあった。 
 「だけど今度はわけが違う」と、ぼくは悪い予感がした。 
 石井義信監督の率いる今度の日本代表は、徹底した守備重点のチーム作りをしている。守りのチームにとっては雨は不利ではないだろうか。
 雨で濡れたボールと芝生は、思わぬミスを招きやすい。ミスは攻めているときにも守っているときにも起きるけれど、守りのミスの方が致命傷になるのは分かり切ったことだ。
 日本代表チームが一生懸命に守りに守っても、雨による一つのミスが命取りになりかねない。 
 また守りは非常な労働である。雨の中では労働はますます辛い仕事になる。辛い仕事で疲労が重なればますますミスが起きやすくなる。
 だから地元ではあるが、この雨は日本に不利だと考えた。 
 結果はご承知の通りである。 
 前半37分の失点を不運ということはできないかもしれない。 
 攻めに攻められたすえに馬林の好シュートをゴールキーパーの森下が辛うじて防ぎ、そのあとのコーナーキックからの攻めをやっとはね返したと思ったら、クリアボールを左サイドの段挙に拾われてゴール前に放り込まれ、長身の柳海光のヘディングがゴールに突き刺さった。 
 柳海光のマーク役は勝矢のはずだったが、連続のピンチを逃れてほっとした直後であり、左サイドの段挙が少しドリブルしたために、守りの注意が、そのサイドに引き付けられてマークがくずれた。そのため柳海光をフリーにしてしまっていた。これは守りのミスである。 
 なぜ、この時点で鉄の守りにミスが出たかといえば、降り続く雨のために、守りに追われる選手たちの疲れが倍加されたためだと思う。 
 よく頑張った選手たちのことを思えば、この失点はミスというより不運だといってやりたい。幸運に恵まれて勝ち進んできた日本にとって、地元の最終戦が雨になったのは不運だったといいたい。 
 しかし今後は、雨を不運と言わないですむように、攻めのできるチームを作って欲しいとも思う。

協会幹部は総辞職せよ
それぞれご苦労さんだったけれど指導者は結果に責任を!

 「日本が負けたのは不運だったといって責任をごまかすんじゃないだろうな」と友人が言う。 
 もちろん、そんなつもりはない。 
 勝負ごとは「勝てば官軍」だが、「負ければ賊軍」だ。指導者は結果に責任を持たなければならない。 
 こういうことを書くのは人情においては忍びないが、ぼくは今回の結果について日本サッカー協会に4人の責任者がいると思う。 
 石井義信・日本代表チーム監督、横山兼三・強化部長、平木隆三・技術委員長、長沼健・専務理事の4人である。 
 「石井監督は当然クビだろう。1年前にソウルのアジア大会で負けたとき、すでに辞めさせろと、お前さんが言っていたんだからな」 
 確かにアジア大会のあと、石井監督を解任すべきだと主張した覚えがある。ただし、あのとき、実は内心では石井監督に同情していた。 
 というのは、当時の石井監督の立場は、森孝慈監督の辞任のあとを急に引き受けさせられた形で、おそらくは自分の思い通りのチーム作りも戦い方もできなかっただろうと思われたからである。 
 今回の石井監督は自分の思い通りのチームを作り、自分の思い通りのサッカーをした。 
  守りばかりのサッカーは、見ていて面白くなかったし、記者会見のたびに、かなり手厳しい批判を受けていたが「いまの我々の戦力では、このサッカーで戦い抜くしかない」と主張し続けて変わらなかった。勝負師として守りのサッカーに賭け、最後まで頑張り抜いたのは立派だったと思う。 
 だが、それだからこそ結果に責任を持つべきである。自分から辞任してこそ男である。 
  横山強化部長は、どんな役割を果たしたのか知らないが、職責上、監督と一心同体、監督が辞めるときは自分も辞める立場だろう。
 技術委員長は少し立場が違う。日本代表チームだけでなく、広い立場から日本のサッカーのレベルアップのための行政的な施策を担当するのが仕事である。
 だから本来なら一つ一つの結果に責任を持つ必要はないけれど、平木委員長の場合は、長い間、代表チームと直接かかわってきていたので、今回の結果の責任を問わなければならない。 
 さて最後に長沼専務理事である。 
 専務理事は、サッカー協会全体の施策を司る行政官の立場だから、勝負の個々の結果に責任をとる必要はまったくない。 
 しかし代表チームの強化は協会の仕事の一つの大きな柱である。長沼専務理事は協会の実権を握ってすでに12年になる。その間にオリンピックでも、ワールドカップでも、アジア大会でも成果を挙げられなかった。したがって長い目で見た行政上の責任は問わなければならない。 
 「つまり協会総辞職だな」と友人が言う。 
 その通り。就任間もない藤田会長を除き総辞職で出直すべきである。

単独チームで強化を
「つま恋」キャンプは性懲りもなく集中強化主義に執着?

  「協会幹部がみんな辞めちゃったら、あとはどうするんだろうな」 
 と友人が心配した。
 「心配するな。辞めっこないんだから。しょせん、われわれの筋論は犬の遠ぼえだよ」 
 「でも辞めないで、また同じことを繰り返すんじゃ、それも心配だ」 
 いや、ごもっとも――。 
 こんな心配をするのも実は、日本サッカー協会が、1月の中旬に静岡県掛川市の「つま恋」でナショナルトレーニングキャンプを行う計画を発表したからである。 
 日本リーグ1部12チーム、2部選抜2チーム、大学選抜2チームを集めて3日間、7人制のミニサッカーなどをやって「レベルアップ」をはかるんだそうである。 
 各チームの監督、コーチや医事委員会、科学委員会のスタッフも参加して研究、討論をするという。 
 こういう計画は一見、非常に有意義のように聞こえる。しかし実は、これも相も変わらぬ集中強化主義の亡霊ではないのか。 
 「集中強化主義」とは、各チームから選手を集めて、日本サッカー協会が、ひとまとめにして強化をはかるやり方である。 
 この方式は、代表チームを、その場限りで強くするためにはてっとり早い。すぐれた監督がいて適切に選手を選べばの話だが、強化の時間と場所を十分与えられるからである。 
 しかし、長い目でみて日本サッカー全体の力を上げるためには弊害がある。選手たちが所属チームを留守にする期間が長くなり、単独チームが、それぞれ独自の工夫と努力でチームを強くし、選手を育てることが、むずかしくなるからである。 
 「つま恋」でやろうとしている新しい試みに、まったく意味がないというつもりではないが、その背景に集中強化主義があるのだったら「性懲りもない無反省」と言わなければならない。 
 日本代表チームが中国に敗れたあと、日本リーグ・チャンピオンの読売クラブがマレーシアに遠征して、アジア・クラブカップの第2ラウンドを戦った。 
 最初の試合に勝ったあと、第2戦で地元のクアラルンプールに敗れ、望みは薄くなったように思えたのだが、ブラジルから来ているディノ・サニ特別コーチは、こう言って選手たちにはっぱをかけたそうだ。 
 「最後の相手の中国の八・一(解放軍のクラブ)のサッカーは、日本代表に勝った中国代表のサッカーと同じだ。読売クラブは中国に勝てることを示そうじゃないか」 
 読売クラブは2点差をつけて八・一に勝ち、得失点差で1月下旬に行われる予定の決勝に進出することができた。 
 日本代表チームに対抗意識を燃やしているような言い方に、抵抗を感じる人もいるかも知れない。 
 しかし、選手たちの母体である単独クラブが、それぞれ競いあって努力してこそ全体のレベルが上がり、それがやがては日本代表の強化にもつながるのだと思う。


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