スポーツには家風がある
じっくり議論をする登山家たちに感心したり、うんざりしたり
「スポーツには家風がある」というのが、ぼくの持論である。
ある家では朝食のときに魚の干物を食べるが、別の家では朝は魚は絶対に食べない。これは家風の違いの一つの表れである。
サッカーでは試合の始まる前から観客が鳴り物入りでにぎやかに応援するが、テニスの観客はプレーの合い間にお行儀よく拍手をするだけだ。これはスポーツの家風の違いの一つの表れである。
つまりサッカーにはサッカーの家風があり、テニスにはテニスの家風があるというわけである。
観客の態度は一つの例であって、スポーツの家風は、他にも、いろいろなところに表れる。
サッカーやテニスやゴルフでは、プロとアマがいっしょに試合をするけれども、野球やラグビーでは、プロとアマをきびしく区別している。これも家風の違いの表れである。
スポーツの家風の違いは、そのスポーツの生まれ育った歴史や競技方法の違いから出てきているので、どの家風が正しくて、どの家風が間違っているというわけのものではない。朝食に魚を食べるか食べないかは、是非善悪の問題ではない。
なぜ、いまごろこんなことを書くかといえば、最近、登山の仕事に巻き込まれていて、登山関係者との付き合いが多く、スポーツとしての登山と他のスポーツとの家風の違いを痛感しているからである。
登山は山が相手のスポーツである。相手の山は動かないから、あらかじめじっくり時間をかけて考えることができる。あわてなくても、山は逃げ出すことはない。多分、そのせいだろうと思うのだが、登山の家風はいささかのんびりしているように思われる。一つの登山に十分時間をかけて、ああでもない、こうでもないと議論を楽しんでいる。
サッカーでおなじみのタクティクス(戦術)という言葉を、日本の登山家たちも使っていて、そのタクティクスについて延々と議論をする。
サッカーの場合のタクティクスは、主として試合に出てからの、相手の出方に対応した攻め方と守り方である。相手がどう出てくるかは、そのときにならないと分からないから、戦術的能力の高さは、その場、その場の状況に応じた判断の的確さとすばやさにかかっている。戦術の練習は、要するにそういう変化に対応する能力を高めるためのものだといっていい。
山の場合は、そうではないらしい。天候の変化はもちろん予測しがたいものがあるだろうが、天候は良くなるのを、ある程度は待つことができる。山そのものは動かないし、変わらないから登山家のいうタクティクスは要するにその山の登り方であって、サッカーの用語でいうストラテジー(作戦)も、その中に含まれているようだ。
試合の始まる前、つまり登山を始める前に、地図を広げて、このタクティクスについてじっくりと研究し、討論する。これがもう登山の楽しみの一部のようなものらしい。
長期的にものを考えて、じっくりと準備をすることは、サッカーの家風になじんだ人たちが、登山の家風から学ばなければならないだろうと思う。ただ、あまりにもじっくりと時間をかけるので、サッカーの家風になじんだぼくとしては、いささかうんざりした。
世界最高峰の交差横断
目的を実現するために手段を工夫しなければならないのだが!
ところで、ぼくがいま巻き込まれている登山というのは、世界最高峰のチョモランマ/サガルマタ(英語名はエベレスト)を、日本、中国、ネパールの三国合同で南北両側から登って、それぞれ反対側に降りようという交差横断である。さらに、この交差横断を現地からテレビで宇宙中継しようという計画もついている。
さて、この大計画を引き受けたのは日本でもっとも歴史と格式のある登山団体の社団法人日本山岳会だが、引き受けるについては、内部でかなりの議論をしたらしい。その議論の中には、サッカーの家風になじんでいるわれわれには奇異に思われるようなものもあった。たとえば、こういう主張があったという。
このような大規模な登山を成功させるには、多くの人数を動員して極地法による登山をしなければならないが、現在の世界の登山界の大勢はアルパインスタイルが主流であって、極地法登山は時代遅れである。したがって、こんな登山をすれば世界の批判を招くだろう――大ざっぱにいえば、こういう意見である。
極地法というのは、多くの力を結集して食糧などを次つぎに上部のキャンプに運び上げていき、チームの力で頂上をめざす登り方である。一方、いま世界の流行だというアルパインスタイルは、少人数が一気に短期間に頂上にかけあがる軽量スピード登山で、いわば個人の力による山登りである。
こういう話を聞いて登山にはシロートのぼくは考えた。「サッカーだったら勝つという目的があって、その手段を考える。場合によって大差をつけて勝たなければならないこともあるし、引き分けでよいこともある。その目的と相手チームの力と味方のチームの状態――この三つの条件によってツートップにしようとか、ウイングに足の速いのを使おうとか考える。登山の場合も、目的によって極地法を選ぶときもあり、アルパインスタイルを選ぶときもあっていいんじゃないだろうか」
つまり手段は、目的と相手の状況(登山の場合は山の状況)と味方の状況によって決まるのだから、手段の方から先に議論するのは順序が逆だと考えたわけである。
今回の登山計画についていえば、目的は三つある。まず世界最高峰の交差横断があり、次に三国の友好があり、さらにテレビの宇宙中継がある。この三つの目的を遂行するために極地法がいいという結論になれば、極地法登山をするのに、なにも遠慮することはない。とまあ、これがぼくのシロート考えである。
ただし「そういう登山はやりたくない」という人は別である。それは趣味の問題だから、そういう人は黙って参加しなければいい。 これは、相手チームとの力関係を考えてスイーパーシステムで試合をすることになったとき「ぼくはスイーパーは嫌いだから試合に出ません」というようなものである。
そういう態度がサッカーで通用するとは思えないが、登山では通用するだろう。それは家風の違いである。
マラドーナと登山
スーパースターを盛り立てるのに協力した南米のスター!
マラドーナを招いて行われたゼロックス・スーパーサッカーは大成功だった。あの寒い時期に国立競技場に大観衆を集めたのはたいしたものだ。さすがマラドーナである。
南米選抜を編成してそこにマラドーナを加えることになったとき「ファルカンやエジーニョなどのそうそうたる顔ぶれといっしょだとマラドーナもやりにくいだろうね」といった人がいた。だが、これは一知半解の言葉である。
たしかに南米選抜のメンバーの中には、マラドーナにまさるとも劣らぬ南米各国のスーパースターが含まれている。とくにブラジルの選手たちは「本当のサッカーを見せられるのはおれたちだ」という自負にあふれているに違いない。しかしである。
一方で彼らはすぐれたプロフェッショナルであり、東京で行われるこの試合は、ワールドカップで優勝したアルゼンチンのヒーローを日本のファンに紹介するのが狙いであることを百も承知である。ここではマラドーナを主役にして盛り立て、しかも自分自身の良さもアピールする――そういう試合を誰に言われなくても、それぞれが自分自身の判断で演じるはずである。
試合はまさにその通りになった。
だから今回のゼロックス・スーパーサッカーは大成功だったと、ぼくは思うわけである。
ところで、これが登山だったらどうだろうか、と考えた。
ヒマラヤの7000メートル〜8000メートル級の登山では、大きな登山隊を組んで遠征しても頂上に立つことのできるのは1人か2人である。その1人か2人を他の隊員が盛り立ててスターにしてやることができるものだろうか。
専門家の話を聞くと、これはなかなかむずかしい問題のようだ。 ヒマラヤの高山に挑戦するほどの人はそれぞれ、ひとかどの山歴の持ち主である。その中から誰を最後のアタック隊員に選ぶかは、その登山の大きなやま場になるという。ここでは誰がスターになるかを最後に決めるのは隊長である。
成功は1人のスターの力だけでもたらされるものではなく、そのスターを盛り立てたみんなの力である。
登山の世界では、このことは口がすっぱくなるほど繰り返して強調されている。しかし、すぐれた登山家であればあるほど「おれが頂上に」という気持が強いという。そうでなければ厳しい条件のなかで頂上をめざすことはできないのだろう。
サッカーでもヒーローを生むのはみんなの力である。しかしサッカーのプロフェッショナルの場合には、1人のスーパースターを盛り立てるために、他のスターたちは協力するにやぶさかでない。なぜならチャンスはいくらでもあって次は自分の番かもしれないし、また仲間を盛り立てることによって自分自身の待遇もよくなるからである。これも家風の違いのひとつなのかもしれない。
|