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サッカーマガジン 1986年7月号

ビバ!! サッカー!! ワイド版

ついに来たプロ、アマ共存の時代
画期的な新体協のスポーツ憲章

アマチュアリズムの間違い
25年にわたるぼくの孤独な戦いについに勝利の日が来た!

 1986年5月7日、つまり、ついこの間のことだけど、この日はぼくにとって、いや日本のスポーツにとって永久に記念すべき日となった。日本体育協会が、この日の理事会で、あのばかばかしいアマチュア規定を廃止して新しいスポーツ憲章を制定したのだ。
 この話は先月号にもちょっとばかり書いたけど、まあ、もう一度だけ書かせてもらいたい。
 日本体育協会(体協)にむかしからアマチュア規定というものがあって、プロフェッショナルとアマチュアを厳しく区別していた。その根本にはプロスポーツは汚いもので、さわると美しいアマチュアスポーツが汚されるという考えがあった。
 だけど、プロは汚くてアマチュアは美しいなんて考えが間違っていることは、スポーツ以外の世界を見てみれば誰にだって分かる。
 プロは、お金をもらうから汚いというのだが、絵画の世界でルノワールは絵を猫いてお金をもらったから汚いなんて思うだろうか。音楽の世界でプロの中村紘子と同じ舞台でピアノを演奏するのは違反だなんて考えるだろうか。「そんなばかげたことはない」と誰だってそういうに違いない。
 ところが日本の体協アマチュアア規定は、時代とともに少しずつゆるやかになってきてはいたが、基本的には「プロにさわれば汚れる」という原則を基本にしていた。そんな「汚染原則」が世界共通のものではないことは、サッカーを知っている人なら常識である。
 なぜなら、世界のサッカーでは、プロもアマも同じ組織に属して、いっしょにプレーをして、いっこうに差し支えないからである。差し支えないどころかプロとアマを同じ組織で統制し、プロとアマがともに出場できる世界選手権ワールドカップを創設したためにサッカーは世界でもっとも、大衆に愛され、アマチュアの競技人口の多いスポーツに大発展したのだった。
 ぼくは、スポーツ記者になって間もなく、プロとアマを厳重に区別する体協アマチュア規定が、日本のスポーツの発展を妨げている大きな原因だと思うようになった。なにしろ、世界中ほとんどの国で、プロサッカーが子供たちのスポーツをする心を刺激し、いろいろなスポーツの振興に役立っているのに、日本では体協アマチュア規定があるために、世界のサッカー先進諸国と同じ体制をとれなかったのだから。
 そこで体協アマチュア規定改正のためのキャンペーンを、これまで、いろいろな機会にやってきた。ぼくが働いている読売新聞の紙面でも繰り返し連載をしたし、サッカー・マガジンの誌面も長い間、利用させてもらった。テニス・マガジンで2年がかりで、アマチュア問題だけを取り上げた連載をしたこともある。
 しかし残念ながら、ペンの力はしれている。長い孤独な戦いはあまり効果がなかった。今回、体協がアマプロ共存を認めるスポーツ憲章を制定したのは、実は、オリンピックでもプロの出場を認めるようになってきたためで、別にぼくのいうことを聞き入れたわけではない。
 とはいえ、終わり良ければすべて良しである。5月7日の夜、ぼくはひとりで祝杯をあげて、長い戦いのむだでなかったことを喜んだ。

旧体協規定の間違い
体協アマチュア規定とオリンピック参加資格規定は性格が違う

 プロを汚いものだと決めつけるのは間違いだと、ぼくは思うが、世の中には、お金を目的にしないでスポーツを楽しむのは美しいと、考えている人も少なくない。そのようなアマチュアリズムの信念を持つことには、ぼくも反対しない。むしろ敬意を払っていい。ただ、そういう個人的な信念をみさかいなく、誰にでも押し付けようとするのであれば反対する。
 アマチュアリズムを信じるのは宗教を信じるようなものだと思う。個人が信仰を持つことに反対する理由はないし、まじめな信仰心の厚い人に敬意を払うのにやぶさかではない。しかし、その宗教を日本人全部に押し付けるための法律を作るようなことがあれば断固反対する。信仰の自由は認めてもらわなくてはならない。
 日本体育協会のこれまでのアマチュア規定は、実は特定の宗教を、スポーツマン全部に押し付けようとするものだった。そこに根本的な間違いがあった。
 体協の旧アマチュア規定は、かつてのオリンピック考え方と規則をもとにしていたが、実は体協のアマチュア規則とオリンピックの規則とはまったく性質の違うものである。
 オリンピックの規則(国際オリンピック委員会の参加資格規則)は、オリンピックに参加する者の資格を制限するための規則である。
 いまは変わってきたけれど、もともとオリンピックは、アマチュアリズムをもとにした大会だった。だからアマチュアリズムに賛成の人だけに参加してもらうことにしていた。つまりスポーツでお金をもらわない人だけに参加資格を認めていた。
 それはそれで、別に悪いことではない。いわば、ある宗教団体が大会を開いて、信者だけを集めるようなものである。しかし日本体育協会の規則となると話はまるで違う。
 体協の規則は、ある特定の大会に参加する選手の資格だけを制限しようとするものではない。体協に加盟しているスポーツ団体に登録する選手全部をみさかいなく制限しようとするものである。
 体協には陸上、テニス、サッカーなど、競技の性質も、国際組織も、歴史的背景もそれぞれ違うスポーツが加盟している。旧アマチュア規則は、それをひとからげにして偏狭なアマチュアリズ厶にもとづく厳しい枠の中にはめこんでいた。つまり一つの宗教を、すべての人に押し付ける規則のようなものだった。
 体協が、狭い範囲の人たちだけの私的なクラブだったらそれでもよいのだが、日本体育協会は日本の国民全体のためにスポーツを盛んにし、国際的な活動をしなければならない公益法人である。したがって狭い考えで、すべてのスポーツマンをしばろうとする規則を持つことが、そもそも間違いだったといっていい。
 体協の新しいスポーツ憲章は、この間違いをようやく改めたものである。憲章には「アマチュアスポーツマンのあり方」が、理念として掲げてあるが、選手の資格については、それぞれの競技団体に任せてある。またそれぞれの国際競技連盟の規則にしたがって、プロ選手を登録することもできるようにしてある。
 これは国際的には当たり前のことで、日本のスポーツもこれで、ようやく世界の常識を取り戻したわけである。

フェアプレーの理念
体協の憲章はプロアマ共通のスポーツのモラルを強調すべきだ

 こんなふうに書いてくると、まるで日本体育協会の新しいスポーツ憲章がまったく理想的なもののように思われるかもしれないが、実は大違いで、憲章の文章はかなりひどいものである。
 たとえば「第二条 アマチュア・スポーツマンのあり方」という文章が初めの方にあって、五項目があげてある。その最後の二項目は次のようである。
 ○スポーツを行うことによって、自ら物質的利益を求めない。
 ○スポーツによって得た名声を自ら利用しない。
 「これじゃあ、古いアマチュア規定と同じじゃないか」と思う人がたくさんいるのではないだろうか。
 まったく、その通り。この文章はアマチュアリズ厶の考え方をそのまま書いたものである。だが、表題が「アマチュア・スポーツマンの…」となっているところにミソがある。アマチュアでないスポーツマンなら、つまりプロなら物質的利益を求めたり、名声を利用したりしてもいいですよ、という解釈をして欲しいというのである。
 それはそれでいいとしよう。だが文章の中に「自ら求めない」とあるのはどういう意味だろうか?
 これは「本人が自分の意志では、お金が欲しいと思わなくても、周囲がその力を認めて、お金が与えられるような結果になることまでは否定しない」という意味だという。瀬古がマラソンで賞金をもらったのなどは、これに当たるという苦しい方便である。これは、アマチュアリズムが現実に合わないことを知りながら、無理にアマチュアリズムを掲げたためのつじつま合わせとしか、いいようがない。
 ところで、この条の二番目の項目は次のようになっている。
 ○競技規則はもとより、自らの属する団体の規則を遵守し、フェアプレーに終始する。
 これが「アマチュア・スポーツマンのあり方」の中にはいっているところに問題がある。
 物質的利益を求めない項目についての解釈の仕方を、ここにも運用すれば「プロなら規則を守らず、フェアプレーに終始しなくても構わない」ということになりかねない。
 このようなおかしな表現は、新しい憲章が古いアマチュアリズムの表現を残すことにこだわったこと、いや旧勢力をなだめるため、こだわらざるを得なかったことから生まれている。
 そのような産みの苦しみは、十分に理解できるので、今度の憲章の文章に奇妙なところが多いのは「やむをえなかった」とぼくは思っているが、次の機会は、ぜひ、すっきりと書き改めて欲しいものである。
 それでは今度書き改めるときにはどんな文章にすべきだろうか。
 ぼくなら「アマチュア・スポーツマンのあり方」を全部書きかえて、単に「スポーツマンのあり方」とする。そして物質的利益を求めないとか、名声を利用しないとかの偽善的な項目はすっぱり切り捨てて、フェアプレーの精神を力強く強調する。
 アマチュアリズムは、スポーツの仕会的価値を守るための理念としては、まったく役に立たないものであり、それに代わって、プロにもアマにも共通に大切なスポーツのモラルは、フェアプレーだろうと思うからである。


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