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サッカーマガジン 1986年6月号

ビバ!! サッカー!! ワイド版

スポーツの流れはプロ容認へ
いま再びジュール・リメの精神に戻る

ついに来るプロ時代
サッカー協会も体協も規則を改正、プロの登録を公認へ!

 ビバ! ブラボー! ばんざい! ついに日本のサッカーにプロフェッショナルが認められる時代がやってきた。遅過ぎるとはいえ正しい方向に動き出したことを喜びたい。
 実はまだ問題はいろいろあるのだが、解説は事態が本決まりになってからのことにして、今回は取りあえず、状況がどうなっているのかを報告しておこう。
 日本サッカー協会は、4月17日の理事会で新しい競技者規定を決めて、5月の評議員会に報告することにした。新しい規定は国際サッカー連盟(FIFA)の規定と同じように、競技者をプロフェッショナル、ノンアマチュア、アマチュアの3種類に分けることにするようだ。
 一時は、プロの登録を認めると世間? がうるさいのではないか、と心配して、ノンアマチュアとしての登録だけを認めようとか、ゲストプレーヤーあるいはライセンスドプレーヤーという名称にしようとか、こそくな意見も出ていたが、日本サッカー協会の長沼健・専務理事の話では
 「すっきりしたやり方がいい」
  という方向に固まったという。
 一方、アマチュアスポーツの総本山だといわれていた日本体育協会でも、これまでのアマチュア規定をやめて新しい「スポーツ憲章」に代えることにした。これは5月の理事会で承認し、7月の評議員会で最終決定することになっている。
 新しい「スポーツ憲章」の草案はすでに公表されている。最初に「アマチュアスポーツ発展のための精神を基調とし」とうたって、なんだか変わりばえしない感じだが、かんじんなのは、選手の資格を制限する項目である。
 「本会(日本体育協会)の加盟競技団体は、次の者をアマチュア競技者として登録できない」という文章があって、いくつかの制限がある。
 ちょっと読んだだけでは、わけが分からないが、前の規定では、これにあたる部分がこうなっていた。
 「本会加盟の競技団体は、次の者を競技者として登録できない」。
 お分かりだろうか。
 前の規定では、すべての選手に同じ制限を加えていて、体協に属している限り、日本サッカー協会は、体協の制限している範囲の選手、つまりアマチュア選手しか登録させることができなかった。
 しかし新しい憲章では「アマチュア競技者」としてでなければ、つまり別のカテゴリーであれば「プロフェッショナル」を登録できることになったわけである。
 これで一気に日本のサッカーにプロ時代がくると思うのは早計だが、焦ることはない。一度せきを切った大きな流れを食い止めることは不可能だと思うから、取りあえずはこれでビバ!としなくてはならない。

ワールドカップの回想
プロ・アマ共存の大会を実現したジュール・リメの名著!

 日本のスポーツ界は、いまごろになってようやく、おそるおそるプロとアマの共存を認めようとしているが「プロフェッショナルを排除するのは正しくない」という考えは日本以外の国にはずっと前からあった。サッカーの世界選手権、ワールドカップは、この考えで始まり驚異的な発展をしたもっとも良い例である。
 このワールドカップを創設し大きく発展する基礎を作ったのは、国際サッカー連盟(FIFA)の会長だったフランスのジュール・リメだった。そのジュール・リメの回想録の日本語版が「ワールドカップの回想―サッカー、激動の世界史」というタイトルで、メキシコ大会を前にベースボール・マガジン社から出ることになった。これは、サッカーの好きな人はもちろん、スポーツに関心のある人みんなに読んでもらいたい本である。
 クーベルタンの提唱で第1回オリンピックが開かれたのは1896年である。ワールドカップの第1回は1930年だから、サッカーの方がかなり遅い。にもかかわらず、ワールドカップはオリンピックをしのぐほどの、すばらしい大会に急成長した。その秘密は、プロ・アマ共存の哲学にあった。
 ジュール・リメがワールドカップを創設した一つの目的は、プロフェッショナルとアマチュアを区別しないで、本当の世界一を決めることにあった。つまり、プロを排除しなければならないとしていた当時のオリンピックの考え方に反対することから始まっていた。
 ジュール・リメは、現実をしっかりと見つめ、スポーツを守るためには何が必要かを考え、さまざまな困難を乗り越えて、プロとアマがともに出場するワールドカップの実現にこぎつけた。
 「ワールドカップの回想」には、このような歴史が生き生きと描かれている。
 いまオリンピックのアマチュアリズムが完全に崩れつつあるのを見るとき、ワールドカップを成功に導いたジュール・リメの識見と行動力に、いまさらながらびっくりさせられる。
 実は、フランス語で書かれたこの本を初めてぼくに見せて下さったのは、日本のサッカー協会創設の功労者の1人である新田純興氏だった。
 FIFAから寄贈されたものが。協会の本棚に放置されていたのを見つけて「ここに初めて紙ナイフをいれて、その内容を見た」と、新田さんは、その本にメモを書きつけている。東京オリンピックの年の1964年のことである。
 以来、この本の日本語版を出すことは、新田さんから直接頼まれたわけではないけれども、ぼくにとっては大きな宿題のような感じだった。
 20年以上たち、ようやく多くの方がたのご協力を得て宿題を果たすことができる運びになった。新田さんが1986年に亡くなられて、日本語版は墓前にしか捧げられない。かえすがえすも残念に、また申しわけなく思っている。

「フットボールの社会史」
中世のむかしから、大衆のスポーツとして発展してきた!

 日本のサッカーにプロを認める新しい時代がやってくる。実は「ワールドカップの回想」を読めば、これは日本が遅れていただけのことで、海外の先輩はとっくに気がついて実行していたことだと分かるが、ともあれ、古きをたずねて新しきを知るのも結構だ。
 そこで、古きをたずねるための本をもう1冊紹介しよう。
 岩波新書に「フットボールの社会史」(F・P・マグーンJr著、忍足欣四郎訳)という本がある。
 これもサッカー好きにとっては貴重な日本語版である。
 サッカー(アソシエーションフットボール)のほかに、ラグビーフットボールやアメリカンフットボールがあることは、みなさんご承知の通りだが「フットボールの社会史」に取り上げられているのは、現在のように分かれて、それぞれルールが統一されるより前のフットボールだ。
 サッカーの入門書などに、むかし戦争で敵の首をけって回ったのがサッカーの起源であるとか、中世にはあまり乱暴な競技なのでしばしば禁止令が出たとか、いろいろ書いてある。そういう話が本当かどうか、どんな史料がもとになっているのか、などが、この本で分かる。
 この本を読んでいて改めて思ったのは、フットボールは、中世のむかしから、大衆のスポーツだったということだ。徒弟や農民が、街路や野原で革袋に乾草を詰めてけっとばしたり、奪いあったりしたのが、もともとの形だった。大衆があまりに熱中するから当時の国王や領主が、にがにがしく思って禁止令を出したんだろうと思う。
 というわけで、サッカーが、今日のように世界の到るところで、もっとも大衆的なスポーツとして発展する素地は、もともとから、あったわけである。
 むかしは、領主、貴族は金持ちで大衆は貧乏だったから、フットボールは、お金のかからない娯楽としで愛好されたに違いない。
 さて近代スポーツの時代にはいって、金持ちの連中は、スポーツは自分のお金でやるものだというアマチュアリズムの考えを持ち込んだが、そのときサッカーは大衆のスポーツとしてきわめて賢明な道を選んだ。
 「フットボールの社会史」の巻末に訳者の忍足先生は、次のようなみごとな解説をつけている。
 「1885年、蹴球協会はプロを認め、プロとアマの分裂を回避したが、これが――統一ルールを維持し、ルールの解釈をも統一しようとする絶えざる努力と相俟って――サッカーが隆盛を極め、世界に広まっていった原因である」。
 読者のみなさんは、ご記憶だろうか。実はこの忍足欣四郎先生を、前にも、このビバ!サッカー!でご紹介したことがある。
 やはり岩波新書に「英和辞典うらおもて」という本があって、その中に、しきりにサッカーが引用されているのにうれしくなり「偉い学者の中にサッカーの好きな先生がいる」と書いたことがある。それが忍足先生で、ご自身、実技の経験がおありだとのことである。


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