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サッカーマガジン 1984年12月号

ビバ!! サッカー!! ワイド版

フジタ下村氏の鮮やかな采配
選手の力を充分に引き出し台風の目に

下村魔術の復活
フジタを立ち直らせた下村幸男氏の手腕と日産の不運

 日本リーグの試合が、なかなか面白い。読売クラブと日産の攻撃サッカーがその主役だったが、後半戦にはいってフジタが立ち直って、その間に割ってはいり、9月下旬から10月中旬にかけて、3節続けて国立競技場で行われた試合は、いずれもスリリングなものだった。あれで、お客さんが7万人のスタンドを埋めて、わんわん応援したら、もうヨーロッパのサッカーに負けないムードになっただろう。充分に見る価値のある試合だった。
 フジタが立ち直ったのは、後期にはいって3連敗したあと、シモさんこと下村幸男氏が指揮をとるようになってからだそうだ。下村さんは、いまから20年前、日本サッカーリーグが創設された当時の東洋工業(いまのマツダ)の監督で、リーグがスタートしてから、いきなり4シーズン連続優勝の偉業を成し遂げた。その後、フジタ(当時の名称は藤和不動産)がサッカーチームを作ったときに迎えられ、日本代表チームの監督や日本リーグの総務主事を務めたこともある。ぼくは、監督としては、日本のサッカー史上、この人が最高だろうと思っている。
 10月13日、国立競技場の試合でシモさんの率いるフジタは、日産に3対1で快勝して独走にストップをかけた。試合のあとで、ぼくは下村さんのところへ話をききにいった。
 「いやあ、これで読売さんを有利にしてしまった。やるんだったら、読売、日産、ヤマハを、公平にみんなやっつけてくれって、言われていたんですがね」
 どうやら、下村さんがチームの指揮を引き受けた時点で、すでにフジタが波乱を起こすであろうことを予測した人がいたらしい。そのとき、日産、読売クラブ、ヤマハが首位を争っていて、しかもフジタは、この3チームとの対戦を残していた。立ち直ったフジタが、優勝争いのカギを握ることになるとみたので、その人は、公平に「3チームともやっつけてくれ」と言ったわけである。3チームともやっつければ、フジタ自身も優勝戦線に浮かびあがる。
 立ち直ったフジタに、最初に当たったのは、読売クラブだった。 11月6日、フジタは1点を先取し、九分通り読売クラブを追い詰めていたが終了寸前に同点にされ、ロスタイムにはいってからのPKで惜敗した。
 読売クラブの逆転勝ちがラッキーだったというつもりはない。どたん場で、ひっくり返すことができたのは、やはり実力である。
 しかし、下村フジタに最初に当たったのはラッキーだった。チーム作りについては魔術的なものを持っている下村イズムが完全に浸透したあとのフジタに当たっていたら、逆転できたかはわからない。
 逆に日産は不運だった。読売クラブより1週間遅れて当たったため、その分だけ強くなったフジタを相手にしなければならなかった。そのうえフジタの選手たちは、読売クラブをどたん場まで追い詰めたことで自信をつけていた。
 監督の力は、おそろしいものである。

人材の活用法
選手の能力を生かして使ったフジタのユニークな攻守

 下村幸男氏によって立ち直ったフジタを見て、思ったことが、いくつかある。
 一つは、中盤の守備的なポジションに、植木繁晴君と後藤元昭君が使われていて、これが非常にきいていたことである。2人とも、すでに30歳の選手だ。春期はたしか、このポジションに若手を使っていたはずである。
 若手を使う狙いも、よくわかる。チームには端境期(はざかいき)というものがあって、ベテランにばかり頼っていると、若手が経験を積むチャンスを失って、ベテランが退いたときに、チーム力ががた落ちになる。それを防ぐためには、ある程度早目に若手を使っていかなければならない。
 しかし試合をやる以上は勝つことを忘れてはならない。「春期のフジタは選手たちの力を活用しきれないでいた」と下村さんは話していたが、確かに、植木君や後藤君に力があるのであれば、30歳であっても勝つためには活用しなければならない。
 日産との試合で下村さんは、その植木君を後半すぐに高橋貞洋君と交代させた。高橋君は、かつて帝京高のエースだった俊足の攻撃プレーヤーである。
 フジタは前半、2対1でリードしていた。首位のチームを相手にリードしていて、守りの選手を出すと思いきや、守りできいていた選手を引っ込めて攻めの選手を出す。これも下村用兵の面白さだ。
 実は、ぼく自身も、植木君を交代させたのは適切だと感じていた。なぜなら、植木君は頭脳と闘志でいい守りをしていたが、動きの量は少なくなってきていたからだ。
 下村さんは、こう説明した。
 「この前の読売との試合で、交代の時期が遅すぎて、マークしていた与那城にやられてしまった。だからきょうは早目に代えた」
 なるほど、やっぱり、とぼくは思う。自分自身の失敗に、ちゃんと気がついて、次にはすぐに大胆に修正するあたりは、さすがである。
 さて、もう一つ、フジタの試合ぶりで気づいたことを書いておこう。
 それは日産との試合で、右のディフェンダーの広瀬龍君の攻め上がりが、なかなかドラマチックだったことだ。
 フジタの1点目は、ハーフライン付近でボールをとった広瀬君が、一気に逆襲で攻め上がったところから生まれた。広瀬君の足の速さがあざやかだった。
 そのあとでこんな場面もあった。
 右タッチラインぎわで右ウイングの吉浦茂和君がボールを持った。しかし相手の守り2人にラインぎわに追いつめられ、内側にも守りがいてパスを出すところがないようにみえた。前の2人を抜いて前方のオープンスペースへ自分で走り抜けることも不可能にみえた(図)。にもかかわらず、吉浦君は、浮き球で2人の相手の頭越しにボールを出そうとした。
 そのときである。
 後方から広瀬君がタッチラインの外側を大きくまわって、右前方のオープンスペースに走り出た。
 タッチラインの外を大きく使ったところがユニークだった。

出場停止の不合理
大事なところで日産の越田君が出られなかったルール

 フジタが首位日産を破って波乱を起こしたのは、もとよりフジタがみごとに立ち直ったからだが、日産にも不運があった。
 不運の一つは、9月下旬の日韓定期戦で木村和司君が左ひざのじん帯をのばす負傷をしたことであり、もう一つは大事なところで日本代表のディフェンダーの越田剛史君が、2試合連続の出場停止になったことである。
 このうち、「そんなばかな」と思ったのは越田君の出場停止だ。
日本リーグには、退場、警告にともなう出場停止の規則があって、それがことしから、やみくもにきびしくなっている。
 退場させられると次の試合は出場停止になる。これは従来通りで国際大会でもそうなっている。1試合で2度警告されるとすぐ退場になり、したがって次の試合は出場停止になる。これも従来通りである。
 通算3度の警告を受けると次の試合は出場停止になる。これもまあ、いいだろう。1試合で2度警告されれば次は出場停止になるのに、1試合に1度ずつ分散しての警告は、いくら繰り返しても不問に付すというのでは不合理だからである。
 問題は、その次である。
 ことしからの日本リーグの規則では、退場あるいは警告3度で1試合出場停止になったあと、それで帳消しということではなくて、その前のやつがまだ生きていて、その後に警告を受けると、たちまち、また1試合の出場停止になる。さらに警告を重ねると2試合の出場停止になる。
 越田君の場合がこれで、第12節の鋼管戦と第13節のフジタ戦に出られなかった。
 1試合出場停止を忍べば、次からはまた新たに、公然と悪質な反則ができるのは納得できん、ということで、こんな規則を作ったのだろうけれど、ぼくの考えでは、これはいかにも行き過ぎである。これでは、1度出場停止になると、それをいつまでも引きずることになる。
 そもそも――なんていうと大げさにきこえるだろうけれど、スポーツの目的は、選手に競技をさせることにある。サッカーのように、年間の試合数の少ないスポーツでは、出場停止は1試合だけで充分である。
 警告あるいは退場になるのは、本人の方からみれば必ずしも故意に悪質な反則をした場合とは限らない。主審の方からみて警告あるいは退場に値するとみられただけである。それはそれでいいのだが、主審のその場、その場での判断が、主審の権限外のその後の試合にまで、あまりに大きく影響するのは弊害がある。
 それでは、本当に悪質なことを繰り返す、本当に悪質な選手を取り締まれないかというと、そんなことはない。
 そういう場合は、審判員とは別のメンバーで構成される規律委員会で処置を検討すればいい。1試合の出場停止は、必要な場合に、規律委員会を招集する時間の余裕を与えるためのものでもある。


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