静岡を表彰したいが…
清水のサッカーを育てた功労者のおもろいオッサンも
恒例によって1983−1984年の私設「日本サッカー大賞」の表彰を行うこととする。
この賞は、「ビバ!サッカー!」の独断と偏見によって選考するものであって「サッカーマガジン」編集長をはじめとする、もろもろの権威にわずらわされることは、まったくない。
また、表彰された者は、ただその名前を誌上に留めるだけであって、賞状も賞金も何もない。
しかしながら、かりに熱意ある読者が、毎年1度のこの表彰を切り抜いて保存し、100年後に改めて見直したならば「ビバ!サッカー!」の筆者とその諮問に応じた友人たちが、毎年、毎年のこまかい事象に鋭く目を配りながら、しかも悠久の歴史の流れを大観していることに驚嘆するに違いない。
さて、友人が言う。
「日本サッカー協会は、読売新聞社制定の日本スポーツ賞のサッカー部門に、国際審判員の佐野敏一氏を推薦していたな。あれは、いったいどういうつもりだ。日本の審判なんて、表彰に価しないぞ」
「まったくだ。佐野君が日本の審判員の中で出色であることは認めるが、あれは他の人のレベルがあまりに低過ぎるからだ。表彰するなら、せめてオリンピックの開幕試合の笛を吹くくらいになってからにしてもらいたい」
「おれはだいたい、現役の審判員を社会的に表彰するなんて、よくないと思う。選手たちに変な先入感を与えるようなことは避けるべきだ。仲間うちで金バッジや銀バッジをやりとりしてるんならともかく、新聞に出るような表彰は、引退するときにやるもんだよ」
まあ、まあ、まあ……。
ぼくの友人たちの見識は、たいしたものだが、すぐ権威にたてつくのと、すぐ横道にそれるのが、悪いくせである。
聞くところによると、日本サッカー協会の理事会は、この件については慎重に審議を重ねた。
新聞社側は「優秀選手」あるいは「優秀チーム」を推薦してもらいたかったのだが、あいにく、日本では特別に優秀な選手やチームの持ち合わせがない。
そこでまず、前年のニューデリーのアジア大会で決勝の笛を吹き、アジアでは最優秀の審判員の1人として認められるに至った佐野敏一氏が候補に上がった。
もう一つ、有力候補に上がったのは「静岡県サッカー協会」だった。1982年度に、静岡県のチームは日本サッカー協会の五つの部門の夕イトルを全部とった。
天皇杯をヤマハがとった。高校選手権を清水東がとった。中学は観山。少年は清水FC、それに女子の日本一に清水第八がなった。
「うーむ。静岡はいい。とくに静岡県サッカー協会の理事長をしている堀田哲爾というオッサンはおもろいぞ。あのオッサンが静岡のサッカーを強くしたようなもんだ」と、すぐ乗る性質の友人。
しかし日本サッカー協会の理事会では「恵まれない審判員に光を」という声が強かったんだそうだ。
「それじゃ、協会の理事会のハナをあかす意味でも、堀田のオッサンに大賞をやろう」
「だけど、この大賞は1983−84年、つまり昭和58年度のものだぜ。このサッカーマガジンが発売される日より2年も前の話じゃ古過ぎるよ」
権威に屈しないはずのわが選考委員会が、編集長の思惑を気にして、この案はおじゃんになった.
未来派の監督たち
新しいものを生み出した人たちを表彰する監督特集だ
わが「ビバ!サッカー!」の選考委員会は、アイデア雲のごとく湧き出ずるので「サッカー大賞」の候補に窮するようなことは絶対にない。
ジャジャーン!
「1983−84年の日本サッカー大賞は、東京の帝京高校を4度目の日本一に導いた、あの名物監督の古沼貞雄先生に、決定いたしまーす」
友人たちの間から、独断と偏見をもって鳴る選考にしては、ちょっとまとも過ぎるんじゃないか、という声も出た。
だが、価値あるものを、ちゃんと評価するのが、われわれの独断と偏見である。
古沼監督の偉いところは、新聞や雑誌に、さんざん書かれていたからここには繰り返さない。
あの1月8日の決勝戦。7万人の大観衆に囲まれたフィールドに教え子たちを送り出すときに、この海千山千の監督は、肌に笑いを浮かべていた。だけど、ぼくは、この笑いは 「作り笑い」だとみたね。
一つは、選手たちを落ち着かせるため、もう一つは自分自身を落ち着かせるための「作り笑い」だとみたね。
本当は、顔をこわばらせていた選手たちの方が落ち着いていて、古沼監督の方は、相手の清水東の強さを知り抜いているだけに、内心は不安だったに違いない。そこが人間らしくていい。
スパルタ式に選手を鍛えることに本領があるように書いてある記事があったけど、本当はそうじゃない。考えに考え抜いて、生徒たちの個性をみながら、あの子にはこう、この子にはこうと、手段を尽くして、いいところを伸ばそうとする人だ。考え過ぎてノイローゼになるくらい、こまかい人だ。
まじめで、情熱に燃えていて、心やさしく、人間味のある人だ。
頭のいい人だ。
戦後の高校サッカーの3大名監督は、藤枝東の長池実、浦和南の松本暁司、それに帝京の古沼貞雄だと、ぼくは思う。それぞれ監督として、正月の高校選手権で3度ずつ優勝していたが、古沼監督は今回の優勝で4度目になり、一歩先へ出た。「サッカー大賞」の価値は充分である。
さて、大賞が決まったので、かけ足で殊勲、敢闘、技能の3賞も決めることにする。
殊勲賞は、日本リーグで優勝した読売サッカークラブの千葉進監督代行にあげることにする。
前の監督が突然投げ出したあとを引き受け、しかも後任に外人監督が来ることがわかっていて、意地をみせた。勝ったから立派である。もっと勉強して将来は大監督に育ってもらいたい。
敢闘賞には清水東高の勝沢要監督を選ぶ。高校選手権の決勝で敗れたけれども、今回の清水東は、芸術品のようなすばらしいチームだった。
技能賞は日産の加茂周監督に差し上げる。木村和司選手を中盤に使って才能を活用し、天皇杯をとった。それだけでなく、木村君を中盤に下げたアイデアは、日本代表チームにも生きて、ゼロックス・スーパーサッカーで、ソクラテスの「コリンチャンス」から、日本代表が2勝をあげる原動力となった。
以上、今回の表彰は、未来のサッカーヘの種子をまいた「監督特集」である。
こんな勝手な表彰ができるのも、「ビバ!サッカー!」なればこそである。
釜本選手の引退試合を
お祭り騒ぎもいい。だけどヤンマー主催でやるべきだ
日本スポーツ大賞の選考を終わったところへ、ヤンマーの釜本邦茂選手が、引退を発表した、というニュースがはいってきた。
うーむ、やっぱり。ご苦労さまでした。
そこで友人たちと協議して、釜本選手にも「特別賞」を贈ることにした。誌上表彰だからね。いくらでもやれるのだ。
釜本選手はヤンマーの監督であり、今回の表彰は「監督特集」であるが、この特別賞は「監督としての釜本」に差し上げるわけではない。
これはあくまでも、1968年メキシコ・オリンピックの得点王であり、日本リーグで200ゴールを達成した「選手釜本」の長い間の功績をたたえるためのものである。
ところで、これほどの大選手が現役を退くんだから、引退試合はやるんだろうね。
「サッカーマガジン」誌上の天皇杯の総評の中で、ぼくは「これが釜本選手の最後のユニホームだとしたら残念だ」という意味のことを書いたけど、引退を決意したのは、やむを得ない。ただ、偉大なガマッチョのユニホーム姿は、引退試合でもう1度、見たいものだ。
実は「釜本引退試合」は、誰かが秘かに計画しているらしい。
ところが、日本サッカー協会のお偉方の中に「前例がないので困る」とか「アマチュアらしくないのは困る」とか、いろいろ異論があるらしい。
たしかに、杉山隆一のときは、引退試合はなかった。天皇杯で三菱が優勝したのが、劇的な花道になった。杉山が日本代表を退くときは、ほんとに何もなかった。外国の人から「なぜ杉山の引退試合をやらないんだ」と言われたのを憶えている。
だけど、杉山のときやらなかったから「前例がない」というんじゃいつまでたっても、例は開けないやね。
あやまちを改むるに、はばかることなかれ、である。杉山隆一の引退試合がなかったことの埋め合わせに、釜本選手の引退試合に杉山選手を招待してSKコンビを再現してはどうか。
引退試合は、ロサンゼルス・オリンピックの後になるだろうから、ヤマハの杉山監督には、いまのうちからトレーニングに励んで、おなかを引っこませておくように、お願いしたい。
「アマチュアらしく」というのは意味がよくわからないが、思うにペレやベッケンバウアーを招こう、とか何とか、はなばなしく花火を打ち上げそうな向きがあって、協会がおびえているのではあるまいか。
お祭りだから、にぎやかにやっていいけど、もちろん規律は必要である。しかし、ペレやベッケンバウアーを呼べるかどうかは、ギャラと効果のかね合いだろう。
それに、もう一つ。
今度の引退は、ナショナルチームからの引退ではなく、ヤンマーの選手としての引退である。
だから引退試合は、ヤンマーディーゼル・サッカークラブが主催するのが、ほんとの姿だと思う。 |