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サッカーマガジン 1983年11月号

ビバ!! サッカー!! ワイド版

やっぱり大量得点はグー
木村、金田の日産コンビが冴えわたる

大量ゴールの評価
五輪予選の対フィリピン。点をとるのはいいことだ!

 勝あってうれしい、花いーちもんめ――だね。オリンピック予選のフィリピン戦、第1戦は7−0、第2戦は10−1。結構でした。この原稿を書いている時点では、まだ中国台北、すなわち台湾との試合の結果はわからない。でも、まずフィリピンに勝ったことを喜びたい。台湾にも勝つでしょう。第1戦は猛暑の中、第2戦は雨の中、国立競技場のバックスタンドで日の丸を打ち振っていた友人たちとともに、そう信じてます。
 「お前も意外に単純だねえ。相手が弱いんだから大勝するのは当たり前だよ。点がたくさんはいったといったって内容を見ろよ。ぴしっとしたのが何点あったか」
 うちへ帰って、テレビの家庭用ビデオで、中継を何度も何度も再生して点検した皮肉屋の友人は、こう言うかもしれない。
 でも、いいゴールがあったよ。
 2試合17点のうち、ぼくの気に入った得点というと……。
 第1戦の1点目。原のヘディングは良かったな。でも、相手のゴールキーパーが、もっと頑丈だったら、つぶされたかもな。
 3点目。加藤久のロングシュートはよかったね。後方から出てきて、攻めをサポートするのが本来の目的だが、「すきあらばゴールを」と第2線から、あらかじめ目を配っていて一瞬のチャンスを逃さなかったのがいい。ああいうのは、ぼくの好みだね。
 4点目。横山のニアポスト前でのヘディングはきれいだったが、これはコーナーキックからで、フィリピンの守りが無策にすぎたところがあった。
 後半立ち上がりの5点目。これはよかった。田中孝司−木村−田中と渡ってシュート。木村が1人のタックルをはずしたあと、田中が右ななめ前に出たのを見ていて、相手のバック2人を引きつけながら、持ち過ぎずにパスしたのがきいた。木村君も、抜こうとする相手だけでなく、まわりの味方が、いつもあれぐらい見えてるといいね。
 そのあとPKで6点目をとるまで30分近くもたついていたのは、いただけないが、以後の7点目の組み立ては、すばらしかった。ハーフライン付近から田中孝司−右サイドの西村−木村とつないで、木村のセンタリング。原がゴール前に走り込む後から田中が出て見事なヘディングシュートを決めた。フィリピンの守りが、もう戦意を失いかけているときで、フォーメーション練習みたいなものではあったけど、技もなけりゃ、あれだけの形はできない。
 というわけで、7点のうち2点か3点は、まず、いいゴールだったんじゃないか。
 第2戦の10点の中には。都並君のがんばりが起点になったのが二つあり、金田−木村の日産コンビによるものが2点あった。だけど後半のゴールは、相手の守りが、ただ突っ立ってるだけみたいなものだったから、そう高くは買えないという意見はあるかもしれない。
 だけどまあ、点をとるのは景気がよくて、いいことだ.
 ニュージーランドとの試合は、勝って1位で2次予選に出るよりも、負けて2位になった方が組み合わせ有利というような変なことになる可能性もあるけど、ゆるみなく点をとり、ゆるみなく守って、やっぱり勝ってもらいたいと思う。

バルコムとの再会
アジアでは、日本が一番有望だ。だが、それには

 フランス・ファン・バルコムから突然、連絡があって「東京に来ているから会いたい」という。ホテルへ訪ねて、久しぶりに歓談した。
 ファン・バルコムの名前を、覚えていない読者もいるかもしれない。1972年から75年まで、読売サッカークラブの監督だったオランダ人である。いかにもオランダ人らしい、ちゃっかりしたところはあるが、なかなか有能で、面白い男だ。
 読売クラブをやめてから、香港のナショナル・コーチになって成果をあげ、ついでイランのクラブのコーチに招かれて、ここでも好成績を残して、イランのナショナル・コーチになった。ところが、5カ月後に例のホメイニ革命が起きて、あやうく脱出。インドネシアでも、クラブのコーチをやって好成績をあげてナショナル・コーチに選ばれた。昨年から香港の“ロイデン”(菱電)という、日本の三菱の息のかかったクラブのコーチ(監督)になったが、菱電が突然、解散になったので、オランダに帰る途中だ――と、以上は本人の話である。
 「東京はあまり変わっていないね」
 とファン・バルコムが言う。
 「日本のサッカーも変わりばえはしない」
 とぼく。
 「アジアの国を随分、まわった。中国にも、チームを率いて毎年のように遠征した。でも、まあ、将来性という点からみると、日本のサッカーが、一番いいと思うね」
 「へえ、そうかね」
 「日本は勤勉でモラルが高い。東南アジアのある国なんか、選手に力はあるんだが、スキャンダルが多くて信用できない」
 「日本は、子供のサッカーは、かなり盛んになったし、うまくなったんだが、どうも、大きくなるにつれて伸び悩んでいる」
 「そこだよ!」         
 ファン・バルコムの声が、急に大きくなった。
 「いま、ヨーロッパの国でも、みなそうなんだ。今度ブラジルのナショナル・コーチになったカルロス・アルベルト・パレイラを知ってるだろ。彼はクウェートのコーチをしてたんで、親しいんだが、彼が言うには、いまヨーロッパには、若い選手がまったく育っていない。ひどいもんだと――」
 「どうしてだろ?」
 「プロのサッカーが悪いお手本を示しているうえに、子供たちの才能を伸ばしてやれるような指導のできるコーチがいないんだ。ただ、オランダには1人いるけどね」
 「まさか、自分自身を推薦してるんじゃないだろうな」
 「もちろん。おれも有能だが、おれの先輩でビール・クーバーというのがいるんだ。若い選手を指導させたら、これはすごい。ヨーロッパでは、もう有名なんだ。調べてみればわかるよ」
 「じゃ、さっそく調べてみょう」
 「そこで、クーバーとおれとで、日本でサッカースクールやコーチング・クリニックをやれないかな。スポンサーを探してくれよ」
 ファン・バルコムの狙いは、これだった。でも、面白い話だと思うので、興味のある方は、スポンサーを紹介してやって下さい。

野津謙さんの夢
日本サッカー協会名誉会長の死去に痛恨の思い!

 はるか大先輩であるにもかかわらず、ぼくたちは「のづけんさん」と呼んでいた。30歳以上も年下の後輩に対して、友だちに話すみたいに夢を語る人だった。その野津謙(のづ・ゆづる)氏が8月27日、天寿を全うされた。84歳だった。
 日本サッカー協会会長、国際サッカー連盟(FIFA)理事、日本スポーツ少年団本部長など、いろいろな偉い肩書きで残された功績については、他の然るべき方が書かれるだろうから、ぼくは、はるか末輩として個人的な思い出を記したい。
 1970年のメキシコ・ワールドカップは、ぼくの見たあらゆるスポーツ大会の中で、もっとも、すばらしいものだった。この大会のプレスサービス(新聞記者などへのサービス)は、アメリカのコカコーラがスポンサーになっていたが、これまた能率的で、しかも暖かみのある、すばらしいサービスだった。
 大会のさいちゅうにある会合で、当時FIFA理事だった野津さんと、FIFAの名会長だったサー・スタンリー・ラウス(英)と、コカコーラの会長だか社長だかが同席した。
 そのとき、サー・スタンリーが、メキシコ大会へのコカコーラの協力ぶりをたたえ、野津さんに「1986年のワールドカップを日本でやらないか。コカコーラも、日本でやるなら大いに協力したい」と言っていると持ちかけた。
 野津さんは非常に乗り気になって、まだメキシコにいる間に、ぼくたちに、その話をした。ぼくも、すぐに乗ってしまう方だから、日本に帰るとすぐに、サッカーマガジンの誌上でキャンペーンをしたりした。
 ところが、である。
 日本サッカー協会の空気は、会長が乗り気になっているこのプランになぜか冷たかった。財界の有力者だった篠島秀雄副会長(当時三菱化成社長、故人)に「野津さんが、また夢みたいなことを言い出して困っている」と直訴した人もいたらしい。というのは、ぼくは篠島さんから直接「日本でワールドカップを開催しようなどというのは夢みたいなこと」と言われて「ははあん」とカンづいたわけである。
 多忙な篠島さんが、誰かにたきつけられなければ、はるか後輩の一新聞記者に、そんなことを言うはずがないからである。
 たまたま、そのころ、文芸春秋の誌上に、大阪の万国博覧会を実現するために、各界の有識者を集めたプロジェクトチームを作って成功した話が載っているのを見た。
 「ワールドカップを日本で開くことの意義を、広く世間に認めてもらうには、この方式がいい」と思ってぼくは野津会長に、その話をした。
 野津さんは、すぐ反応する人である。しばらくすると、すぐお呼びがかかって「文芸春秋の記事を読んだ。ぜひ、あれをやろう」と言われた。
 しかし、残念ながら、これもうまくいかなかった。
 ぼくは、自分の力の足りなかったことを、いま非常に悔やんでいる。
 会長が夢をつぎつぎに描くのは、すばらしいことである。その夢を実現するために努力するのは、若い役員の仕事である。その若い(といっても会長に比べてだが)役員が、水をかけて歩いているようでは進歩はない。
 野津さんの夢で、成功したものもたくさんある。西ドイツからデットマール・クラーマーコーチを招いて、メキシコ・オリンピックの銅メダルをとったのも、その一つである。
 そういう功績は、多くの人が知っている。しかし実現しなかった夢もまた、大きかったと思う。


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