アーカイブス・ヘッダー

 

   
サッカーマガジン 1983年7月号

ビバ!! サッカー!! ワイド版

トータルサッカーの秘密
アタッキングディフェンスを学んだヤマハ

プロ化は、いつから?
偏狭な五輪のアマチュアリズムが崩れ去った今こそ!

 「ビバ! サッカー!」をワイド版にするにあたり、ぜひ、ご意見でも悪口でも、どんどん、お寄せください、と先月号に書いたら、さっそくいろいろ、おハガキをいただいた。ありがとう。
 ヘボな寄席芸人が拍手をねだっているみたいで、かわいそうだからなんて、同情してハガキをくださった方もいるかもしれないが、義理チョコだろうが、義理ハガキだろうが、少数派のおジンには大感激だ。おハガキ、お待ちしてまーす。そのうちに「ビバ!サッカー!」のTシャツでも作って、お送りするように、しようかしらん。
 おハガキには「日本のサッカーのプロ化のキャンペーンなら、4ページでもいいぞ」なんて心強いのもあった。そこで先月号でお約束した通り、一項目はプロ化問題のコーナーである。
 さて、先月号には、日本のサッカーにプロフェッショナリズムを取り入れるのには、二つの道があることを書いた。欧州南米方式のクラブシステムによる道と、北米方式のプロリーグの道である。そして、どっちにせよ、いまの日本のサッカーのトップは「総論賛成、各論反対」で、プロ化に反対はしないが、実際には、消極的であることを指摘した。
 「そうかあ。じゃあ、日本にプロサッカーができるのは、百年河清をまつようなもんだなあ!」
 と、ぼくの友人は、たちまち悲観的になった。中国の黄河の水が澄むのを期待するようなもので、とても見込みがない、という意味だ。友人のセンスも、ちと古い。
 「それは違うね。もう時間の問題だよ」とぼく。
 日本のスポーツ界と体育界を支配していた、あのアマチュアリズム。それは、決して世界中で広く認められていたスポーツの哲学ではなく、また歴史的にも、猛威を振るったのはせいぜい、ここ5、60年のことで決して古代ギリシャ以来のものではない(と学者先生がいっている)のだが、日本では、オリンピックが非常に「たいそうなものだ」と信じ込まされていたために、プロを差別する独断的アマチュアリズムが、幅をきかせてきた。しかし、いまや教条主義的アマチュアリズムは、社会的に無意味であるのみならず、かんじんのオリンピックの中でも、音をたてて崩れ去ったのである。えー、そもそも……。
 「待った。お前の演説は何を言ってるのかわからん。もう少し具体的な話をしろ」と友人。
 「これを具体的に説明したら、ビバ!サッカー!を10ページにしてもらっても、書き切れないよ。でも、いま新聞のスポーツページにときどきオリンピックの参加資格規定の話が出てるだろ。あれのことだよ」
 「それが、どうした」
 「要するに、スポーツの業績をお金にかえるのは“悪いこと”だという考えは、オリンピックの中からさえ、消えてなくなったんだよ」
 「そんなの当然だ」
 「プロはいけない、という理屈は成り立たないんだから、欧州南米方式がいいか、北米方式がいいかなんていうのは、技術的な問題に過ぎないんだよ」
 「じれったいな。それで日本にプロができるのは、いつなんだよ」
 「いますぐ準備をはじめて、来年のロサンゼルス・オリンピックが終わったらすぐ……」
 「えーっ、そんなに早いのか」
 「プロになりたい人はなれるように道をつけてやりゃいいと思うね」
 道ができたら、すぐプロが歩きだすとは限らないが、その話は次回に。

ヤマハ好調の理由は
トータルサッカーの秘密を盗んだ杉山監督の苦労話!

 日本リーグのシーズン前に、ヤマハの杉山隆一監督に会って、話を聞く機会があった。
 実は、月刊総合雑誌に「杉山隆一物語」を頼まれ(「現代5月号」)、その取材で会ったのだが、一般向けの雑誌の読者より、サッカーをよく知っている読者に知ってもらいたいような話も、たくさん出てきた。その中の一つ、二つを紹介したい。
 総合雑誌の編集者の注文は「苦節7年、天皇杯を手にした白髪のサッカー魂」を、ということだった。
 手持ちの材料でまとめても、よかったのだろうけれど、この機会に杉山監督の話をじっくり聞いてみようと思って、休日を利用して、新幹線で磐田まで出かけたのである。
 杉山監督は、ホテルの一室をとって、時間もたっぷりあけて待っていてくれた。ありがたいねえ。サッカーが好きだからこそ、である。
 さて、そのとき出た話の中で、ちょっと専門的すぎるから総合雑誌の方には書かなかったけれど「面白いな」と思ったのは、オランダのトータルサッカーの特徴の一つである集中守備の話である。
 杉山監督は「アタッキングディフェンス」という言葉を使ったが、日本では「囲い込み」といっている人もいる。ボールを持っている敵のプレーヤー1人を、3人も4人もで取り囲んで、プレッシャーをかけてボールを奪いとる守り方だ。
 これは1974年の西ドイツ・ワールドカップのとき、リヌス・ミケルス監督の率いるオランダ代表チームが使って注目を集めたが、もともとは、それ以前に、ミケルス監督がアヤックスで試みて成功したものである。
 杉山監督は、一昨年の夏、オランダに行って1週間ほどアヤックス練習を見たとき、この「アタッキングディフェンス」の練習法を学んで帰ろうと狙ったそうだ。
 この集中守備は、しょっちゅうやって、うまくいくものではない。労働量を要するし、一つの地点に数人を集中して守るわけだから、ほかの地域は手薄になっている。失敗したら、たいへんなことになる。
 「だから1試合に2回か3回試みればいいんですよ。敵は、これにひっかかると、心理的なプレッシャーを受けて崩れてくる」
 1試合に数回しか試みないとなると「それを、いつやるか」が大事である。チームとしてやるプレーであり、しかも、失敗したら一大事という裏側に危険をともなっている守り方だから、チーム全員が同じように「その瞬間」を判断できなければならない。そういう判断力を、チーム全員にどうやって植えつけるのか。
 アヤックスでは、練習試合をしながら、プレッシャーをかけるべき場面が生まれると、コーチがすかさずフエを吹いて「いまだ」と教える――というような練習を繰り返していたそうだ。
 もう一つ、トータルサッカーの守備の特徴になっていたのは、極端なオフサイドトラップだった。
 相手をオフサイドにかけるためにバックラインがいっせいに上がる。このとき守備ラインの4人だけの呼吸が一致しているだけでは充分でない。これも、失敗したら裏側には危険がいっぱいの戦法だから、その対策が必要で、万が一に備えて、守前ラインが上がると同時にフォワードラインは引く動きをする。ここでもチーム全員の判断力の一致が必要である。
 というような話を。杉山監督は次から次へとしてくれた。
 1部へ復帰したヤマハの好調はダテではない。

世界卓球の運営ぶり
この調子で、ワールドカップを日本で開催したいけど

 ゴールデンウイークで、みんなが楽しく遊んでいるとき、ぼくは朝から晩まで働いていた。ホントの話。
 東京で開かれた「第37回世界卓球選手権大会」を、11日間ぶっ続けで取材したのだ。「サッカーだけでなく、ピンポンもやるのか」と言われそうだが、こちとら、スポーツ記者の“たたき大工”だからね。命令されれば、野球だろうが、卓球だろうが、何でも取材する。それに卓球の世界選手権を取材すること、ぼくは実に、これが4度目だ。そうバカにしたもんじゃない。
 そこで、記者席に座っていると、ぼくのところにも、意見を聞きにくるヤツがいる。
 「どうですか。世界卓球の運営ぶりは?」
 「えーと、そうですな。そもそも……」
 どうも最近、肩に力がはいるな。
 「そもそも、世界のスポーツ大会で、オリンピックとサッカーのワールドカップの二つは別格でありますな。運営の規模も、世界の関心度も格段に大きい」
 ホントは、サッカーのワールドカップのスケールの大きさについて、しゃべりたいのだが、それでは、ご質問の趣旨と違うから、ぐっとこらえて本題に戻る。
 「そのほかのスポーツでは、卓球の世界選手権は、伝統もあり、最大の規模といっていいでしょう。その大会を、日本卓球協会だけの力で、これだけ立派に開催したのは、たいしたもんだと思います」
 この大会は、一つのスポーツの選手権としては、ホントに最大規模のもので、今度の東京大会には、87カ国から約1500人の役員選手がやってきた。それが一つの体育館の中で右往左往するんだから、大変だよ。
 まあ、具体的なことをいえば、いろいろ問題もあったのだけれど、ぼくは、どうしても、サッカーと比べちゃうんだね。つまり、日本サッカー協会の組織運営能力で、これだけのことが、できるだろうか、とね。
 残念ながら、できそうもない。4年前のワールドユース大会よりも、今回の世界卓球の方が上でした。残念ながら……。
 外国から来ている人たちの意見もきいてみたけど、だいたい満足していた。サッカーのワールドユースのときは、不満続出だったのは、当時ぼくが、このページに書いた通り。
 ところで、話をきいた人の中に、ハンガリーのハモリ・チボールという人がいた。「ネップスポルト」という新聞の記者で、世界卓球取材はこれで8度目だと、いばっていた。
 「そうか、たいしたもんだね。ぼくは、ほんとはサッカーの方が専門でワールドカップなら続けて見ているんだが……」
  「うん、この調子で頑張れば、そのうち日本でもサッカーのワールドカップをやれるよ」 


前の記事へ戻る
アーカイブス目次へ

コピーライツ