前評判は高かったのに、終わってみると成績は期待はずれ、というチ−ムが必ずある。1982年のスペイン・ワールドカップのベルギーとソ連が、そうだった。
ベルギーは1980年欧州選手権のファイナリストで、決勝戦での試合ぶりは優勝した西ドイツより評価が高く、ワールドカップ予選でも、オランダと同じグループを戦い抜いてきて、「実力は欧州のナンバーワンだろう」という人さえあった。
ソ連はテクニックと体力を兼ね備えたスタープレーヤーがそろい、予選ではチェコスロバキアと同じグループを6勝2引き分け無敗で勝ち抜いてきて、優勝候補にあげる向きもあった。
しかし結果はともに評判とは、ほど遠いものがあった。
評判が間違っていたわけではない。
評判どおりの力は持っていたのだが、それをワールドカップというひのき舞台では発揮できなかったのだった。
ベルギー
赤い悪魔の網の目
1982年6月13日、バルセロナのノウ・カンプ・スタジアムで行われた開幕試合で、ベルギーは、前回のチャンピオンのアルゼンチンを1対0で破った。これがベルギーの唯一のはなばなしい成果だった。
ワールドカップでの試合ぶりに限っていえば、ベルギーチームの見どころは、独特の守りの戦法だけだった、と言っていいくらいだが、この開幕試合では、その守りの戦法がみごとに成功して、マラドーナを封じ込め、世界チャンピオンを破る殊勲に結びついた。
グイ・ツイス監督は、ベルギーの戦法は「攻撃の前線には2人だけを残し、他のプレーヤーでフィールドのあらゆる角度をカバーすることだ」と言っている。
ベルギーの守りは、ゴールキーパーの前に二重の網をはったようになっている。
ディフェンダーの4人がまず、一つの網である。その前に、もう一つ網がある。中盤のバンデルミッセン、コエック、ベルコーテルンの3人がこの網を作っている。
さらに、その前にフォワードの中から1人が下がってきて、網の目に加わる。
この二重のネットワークは、非常に緊密でしかも、もつれることは、めったになかった。
どの試合でも、かなり守備的だった。前の方の網が下がってきて、ペナルティーエリアの外側あたりのラインで、二つの網が、ほとんど重なり合うことも、しょっちゅうあった。重なり合えば、網の目のすき間は小さくなるから、その間を、まともに通り抜けて攻め込むのはむずかしい。
この守りのシステムは、基本的にはゾーンディフェンスである。攻め込んできた相手の選手が、右に左に移動しても、それにつられて守りが引きずられることはない。
しかし、自分のゾーンにはいってきた相手は確実にマークして、しっかりとらえている。そして、ボールのあるサイドでは、1人を2人がかり、3人がかりでマークしている。つまり、ボールのある付近では網の目は、しぼり込まれて小さくなるのだ。
相手やボールが、別の地域に移ったとき、守っている方の人間が、ついて動くことはないが、網の目のしぼりは、移っていく。いいかえれば網の目が流動的に大きくなったり小さくなったりする。
赤いユニホームのベルギーの守りの中で、この伸縮自在のネットワークの元締めになっていたのは、中盤の中心にいたコエックだった。相手がまん中から攻め込んでくれば、コエックがチェックして、バンデルミッセンかベルコーテルンが拾う。サイドから攻めてくれば、そのサイドでチェックしてコエックが拾う、というやり方だった。
開幕試合でアルゼンチンのマラドーナは、中盤のトップ、つまり本来の10番のポジションにいたから、まともにコエックのチェックを受け、赤い悪魔の網の目に、がんじがらめになった。欧州の新聞では、こういう守り方を「ゾーン・マーキング」とか「ゾーニング・マンツーマン」と形容していた。1974年のオランダの“集中守備”とは違うが、似たところもある。極端なオフサイドトラップを併用するところなども似ている。
このベルギーのディフェンスは、2次リーグでは、ポーランドの大きなサイドチェンジによる速攻とボニェクの個人技によって完全に破られた。
しかし、2次リーグでのベルギーは、ゴールキーパーのプファをはじめ、守りの主力選手がけがで出られなくなっていたので、これをベルギーの守りの戦法の限界ときめつけるわけにはいかない。
ベルギーは、攻めの方でも、中心選手のバンデレイケンをけがで使えなかった(大会直前に登録からはずした)など不運な事情がいくつかあった。
そのために、スペイン・ワールドカップのひのき舞台での成績は期待はずれに終わったが、今後研究すべき価値のあるものを持っていたチームではあった。
ソ連
目に見えない落とし穴
ソ連のスペイン・ワールドカップでの成績は2勝2引き分け1敗。記録の上からは、そんなにひどい成績ではない。
しかし、試合内容をみれば、ソ連のサッカーが本当に、その良さを見せたのは、実はただ一つ敗れたブラジルとの試合だけ、それも前半だけだった。
ソ連のサッカーの良さは、何だったのだろうか。
大会前の評判では、今度のソ連はスピードと力のチームではなく、テクニックがあり、しかも攻撃的サッカーをする、ということだった。
確かに、セビリアで行われた1次リーグの第1戦、ブラジルとの試合の前半には、それがあった。互角に攻め合っていたし、中盤のバルの30メートルのシュートで先取点もとった。すばやく正確にパスをし、アウトサイドを使った鋭いパスも、結構あった。ソ連邦の中でも南の方のグルジア共和国のディナモ・トビリシの選手であるチバーゼ、ダラセリア、シェンゲリアが、足わざに変化のあるところをみせ、ブロヒンは、100メートルのソ連記録保持者だった母親譲りのスピードを、正確なボールタッチで生かした。
ところが、である。
ブラジルとの試合の後半にはいって10分すぎくらいから、ソ連の良さは、消えてなくなってしまった。巧みにボールを操って攻めるのはブラジルだけで、ソ連は防戦に追われた。
なぜ、そうなったのだろうか。
考えられる理由は「疲れ」である。
この日、セビリアは30度の暑さだった。湿度も高かった。試合が始まると間もなく、選手たちのシャツは、汗でぐっしょりと濡れた。
そんな中で、ソ連の選手たちは高いスピードでプレーをした。
高いスピードで、名にしおうブラジルの選手とせり合いながら、正確なボール扱いを見せたのだから、ソ連の選手たちが、あの種のテクニックを持っていたということはできる。
しかし、むし暑さのために、疲れは意外に早く来た。そしてスピードの衰えとともに、ブラジルとのテクニックの差が、かえってはっきり出はじめた。高いスピードの中で、使えるテクニックの種類が制限されている間は、ブラジルの選手たちと互角に張りあえたけれども、ゲームのテンポか少し遅くなると、ブラジルの多彩なテクニックがものをいうようになり、ボールはブラジルが一方的に支配するようになった。
ボールを支配されて攻めつけられると、疲れはますます加わる。試合も終わりに近くなってから逆転された2点は、どちらもクリアの力が足りず、短かったのを拾われて攻められたものだった。
結局のところ、ソ連の良さは、スピードと体力であり、それが発揮できなければ、テクニックも付け焼刃で、幅が狭いことがわかる、といったところだが、実は、ほかにもいくつか問題がある。
2次リーグのベルギーには、1対0で辛勝したが、この試合では、ベルギーの厚い守りのために、スピードを生かせない場面が多かった。そのとき、セットしてパスをまわすソ連の選手たちは、ほとんどボールを一度止めて、インサイドキックばかりでパスをしていた。ブラジルとの試合では使っていたアウトサイドの鋭いパスは、まったくといっていいほど使わなかった。いや、使わなかったというよりも、それを使えるような状況を作り出す動きができなかった。
体力とスピードがあり、それに従来は欠けていたテクニックが加わっていても、それを使いこなすには、何かが欠けており、チームが型にはまっていたのではないだろうか。あるいは、中盤のリーダーとして期待されていた30歳のキピアニが、足の故障もあってメンバーに加わらなかったことが、響いていたのかもしれないが……。
* *
ワールドカップで優勝候補にあげられるほどのチームは、必ず「何か」を持っている。その何かを、本番のワールドカップという舞台で充分に発揮できなかったチームは姿を消し、その「何か」も忘れさられてしまう。
しかし、そういうチームの中にも、ときとして未来のサッカーを示すものが、隠されていた可能性は充分にある。
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