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サッカーマガジン 1983年1月号

スペイン・ワールドカップ’82
列強が世界に見せた技術と戦術
ブラジル

魂を揺さぶるもの
 エスパーニャ82のブラジル代表チームにはハートがあった。心があった。スペインの人たちの言葉でいえば“コラソン”があった。テレ・サンターナの率いた、このチームの試合は、ブラジル人の魂を表現した芸術だった。だからこそ、2次リーグで敗退したチームの帰国を、ブラジルの大衆は、暖かく、ねぎらいの拍手で迎えたのだった。
 ブラジルの大衆は、ブラジルのサッカーが世界一でなければ満足しない。2位、3位では、負けと同じで、帰国したチームには、腐ったトマトがぶつけられる――そんな伝説を信じこまされていた世界中の他の国の人たちからみると、前回の3位よりも、もっと悪い成績で帰国したチームが、暖かく歓迎されたのは、信じ難いことだった。  
 だが、ブラジルの大衆がサッカーに求めているものは“結果”ではなく“感動”であることを、この事実は示している。
 もちろん、世界一になったという結果は、国民の愛国心を刺激し、誇りが感動を呼び起こす。しかし、結果が不運であっても、そのプレーぶりに、魂を揺さぶるものがあれば、ファンはそれを認めるのだ。 
 スペインのワールドカップで、ブラジルはイタリアに敗れてベスト4にも進めなかったけれども、そのプレーは、応援に出かけた3万人のファンの、そしてテレビとラジオにくぎづけになった1億2千万人の国民の魂を揺さぶったのだった。
 1982年ワールドカップのブラジルの技術と戦法を語るとき、イタリアに敗れたという結果にだけ、とらわれてはならない。彼らの技術と戦法が、ブラジル人の魂を揺さぶったのはなぜかを知らなければならない。

黄金のカルテット
 ブラジルのチームの編成は、非常にユニークなものだった。 
 テレ・サンターナ監督は、中盤に4人のスタープレーヤーを配し“黄金のカルテット”と呼ばれたこの4人で、攻めも守りもやるように、独特の布陣を敷いた。
 形の上では、4−4−2だが、守備ラインの中で両サイドバックのジュニオールとレアンドロは、後ろにいるときより、前にいるときの方が多いくらい攻めに出る。ジュニオールは、中盤か前線のプレーヤーといった方がいいほど攻撃的である。後方に残るのは、ブラジルのアキレスけん(弱点)といわれた2人のセンターバック、ルイジーニョとオスカールだけである。
 このときに守りをカバーするのは中盤の“黄金のカルテット”だった。両サイドバックがともに攻め上がっているとき(そんな場面が、しょっちゅうあった)中盤の4人は守備ラインの前面に下がり気味になり、相手の逆襲をチェックした。黄金の4人が、守りを助ける仕事をした。
 攻撃の最前線は、左ウイングのエデルとセンターフォワードのセルジーニョの2人である。右ウイングの位置はあいている。
 これは、ちょっと変わったやり方で、ウイングの片側をあけるのは、ブラジルのお家芸の布陣だが、これまでは左サイドをあけるのが伝統だった。
 ブラジルが4−2−4をはじめて世界に紹介した1958年スウェーデン大会では、左ウイングの位置からマリオ・ザガロが中盤に下がっていたし、前回、前々回の大会では、リベリーノが下がって左ウイングの位置があいていた。ところが今回は反対側の右サイドをあける布陣だ。
 この、あいている右ウイングのスペースに、右サイドバックのレアンドロが攻め上がり、左サイドバックのジュニオールも、フィールドを対角線に横断して進出した。
 だが本来のフォワードは、エデルとセルジーニョの2人だけである。
 この2人は、典型的なストライカーで、シュートの威力はすさまじいが、いわゆるオールラウンドプレーヤーではない。放っておくと、きわめて危険だが、すばやい判断力、変わり身の早さがあるわけではない。
 そこで、この2人の強シュートを助けるのは、黄金のカルテットの仕事だった。中盤の4人は、守りを助け、攻めも助けた。
 ジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ――この4人は、ブラジルのスーパースターである。相撲でいえば千代富士、野球でいえば原か、掛布か、というところだが、ブラジルでのサッカーのスターの名声は、日本の横綱やプロ野球選手より、遙かに高い。そして国内の試合では、常にスポットライトを浴びて花道を歩いている。
 そういうスーパースターたちが、それぞれ全能力をあげて、守りを助け、攻めを助ける役割を果たした。そこにブラジルの大衆を感動させる一つの要素があった。
 ラジオのアナウンサーが、スペインから本国のファンに話しかける。
 「ジーコの話をお伝えしましょう。ジーコは自分で、こう言っていました。ジーコはブラジル代表だが、ブラジルの代表はジーコではないと――」
 こういう話が、ブラジルのファンの心を揺さぶるのだ。
 誰がみても、1982年のブラジルチームの代表的スターはジーコである。そのジーコが、ブラジルはチームで戦うのだと、自己犠牲の決意を表明している。いい話じゃないか、と思うわけである。そしてまた本当に、テレ・サンターナのチームは、チームで戦うことをめざしていた。

良さのすべてを出す
 しかし、本当のところは、スーパースターは、やはりスーパースターである。
 テレ・サンターナの狙いは、チームとしての戦いを強調しながらも、スーパースターの全能力を攻守に発揮させることにあった。
 大会の2年前、テレ・サンターナが監督に就任したとき、強調したことが二つあった。それは、単純明快さ(シンプリシダード)と、創造性(クリアティビダード)だった。
 「私は、大きな舞台装置は作るが、舞台の上でスターたちが、どのように演技するかは、スターたちの創造性に任されている。一人一人の創造性を、チームで生かすようにするのが、私たちの仕事だ」というのがその考え方である。
 11人の選手全員が、豊かな創造力と、他人の創造力に呼応する協調性を備えているわけではない。サッカーのタレントの宝庫のように言われるブラジルでも、すべてを備えた選手を、多勢集めることは不可能だった。
 きわだった個性と他のプレーヤーにはない得意技を持ち、ひらめくような創造力があり、協調心と闘争心を兼ね備え、オールラウンドなテクニックを駆使できるスーパースターは4人いて、4人だけだった。
 この4人は、それぞれ得意なプレーを持っている。トニーニョ・セレーゾは守備の判断力がよく、ファルカンは中盤の組み立てがすぐれ、ソクラテスはドリブルとシュートがすばらしい。ジーコは、攻撃的な中盤のプレーヤーとして、ラストパスを出す能力とゴール前へ攻め込む鋭さは抜群である。そして、4人とも、ボール・コントロールのすばらしさは、芸術そのものである。
 この4人をチームとして組み合わせ、それぞれの創造力を、攻めにも守りにも発揮させたのが、テレ・サンターナのブラジルだった。
 4人のスーパースターが、中盤で自由奔放に、しかもチームとして活躍するのは、すばらしい見ものだった。スペクタクルだった。
 技術と創造性が結びついて生み出すものは、芸術である。すぐれた芸術は魂を持ち、人びとの心を揺さぶる。
 ブラジルは5試合で15点をあげている。そのうち9点を中盤の4人があげ、少なくとも7点は4人のアシストから生まれている。
 黄金のカルテットが、攻守を助けたといっても、結局は、4人が主役だった。
 ブラジルの大衆は、スーパースターが存分に活躍し、しかもチームとして、みごとなショウを作り出してくれたことを“不運”としてあきらめ、ブラジルのサッカーの優秀性が、そしてまた、ブラジルの民族の美しさが世界に示されたことに満足したのだった。
 最後に、だが、どうしてブラジルは敗れたのか、という問題がある。
 短い紙数で、すべてを語ることはできないが、ひとつだけあげれば「ワールドカップを勝ち抜くには、術策が必要だった」ということがある。ここで術策というのは、一つひとつの試合の中での、戦術や戦略のことではない。
 大会の第1戦から決勝まで、1カ月わたる七つの試合を見通して、かけひきをしてある試合では力を隠し、ある試合では勝負を賭ける。そういう権謀術策が、優勝するためには必要である。権謀術策のために、自分のチームの良さを発揮できないまま敗退するチームがあるのも事実だが、はじめからすべてを出し切って戦っていては、優勝できないのも、また事実である。
 イタリアは、1次リーグの3試合全部引き分けだった。2次リーグのアルゼンチンとの試合では、プロフェッショナル・ファウルの限りを尽くした。そして、ブラジルとの試合にすべてを賭けて勝った、あとは勢いだった。ブラジルはどうか――。
 1次リーグの最初から自分たちの良さをすべてを出し、3連勝した。
 だが、良さをすべて出すことは、自分たちの欠点も、すべて、さらけ出すということになる。
 第1戦でソ連に、第2戦でスコットランドに、それぞれ1点ずつとられたとき、ブラジルの“アキレスけん”が、ゴールキーパーとセンターバックにあることが明らかになった。イタリアは、ブラジルのこの弱点をついて開始5分に貴重な先取点をあげたのだった。ブラジルが敗れてもなお大衆の支持を得たのは、その良さのすべてを出したからである。しかし、敗れたのもまた、ブラジルが、その良さのすべてを出したからだった。


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