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サッカーマガジン 1982年11月号

スペイン・ワールドカップ’82
列強が世界に見せた技術と戦術
アルゼンチン

高い戦闘能力
 アルゼンチンの戦いは、壮烈だった。悲しく、美しかった。
 4年前、自分の国で開かれたワールドカップでは、つぎつぎに敵をけ散らし、威風堂々と世界チャンピオンになった戦闘艦が、1982年のスペインでは、次から次へと襲いかかる爆撃機の標的にされ、いたるところを傷つけられて、ついに荒波の中に消えた。 
 状況が不利なことは、分かっていた。それでも、世界チャンピオンとして戦わなければならなかった。そこに「メノッティ軍団」の悲劇があった。 
 いや「軍団」という言葉は、適当ではない。軍団というほど大きな戦力を持つ大艦隊ではなかった。アルゼンチンのサッカーを世界的にしたセサル・ルイス・メノッティ監督が、いつもいうように、サッカーのナショナルチームは“コマンド”である。戦闘小隊である。
 メノッティのコマンドは、戦況がきびしいことを知っていた。しかし、血路をひらけば高地の頂上に青と白の旗を、再びうちたてる可能性はあった。 
 ひと筋の望みにかけて、戦う集団は強敵の中に、真正面から切り込み、玉砕した。
 戦いのあとを、こまかく見れば、エスパーニャ82のアルゼンチンの戦闘能力が、きわめて高かったことが分かるだろう。行く手をはばんだイタリアは新しい世界チャンピオンになり、ブラジルは、この大会で「もっともすぐれたチーム」だったと評価された。相手を考えれば、アルゼンチン・チームの実力を、敗戦の数だけではかることは、できない。  

ルーケがいなかった
 82年のアルゼンチン代表のカギを握っていたのは、ディエゴ・マラドーナだった。
 メノッティ監督は、マラドーナに賭けた。というより、賭けるほかはなかった。なぜなら、4年前と違う新しい戦力は、マラドーナだけであり、現代のサッカーでは、4年前の戦力で善戦することはできても、勝ち抜くことはできないからである。優勝するためには、冒険ではあっても、新しいものに賭けなければならない。
 アルゼンチンが世界チャンピオンでなければ、まったく新しいチームを編成してワールドカップに臨むこともできただろうが、それは、今回は許されなかった。アルゼンチンの国民は、4年前の幻を追っているし、世界中のファンも、アルゼンチンが世界チャンピオンのチームとして、タイトルを守るためにスペインに登場することを期待している。すでにポスターに印刷されている主役のスターを、舞台に出さないわけには、いかないのである。
 82年のアルゼンチンのイレブンは中盤から後ろは、4年前とまったく同じである。1次リーグのハンガリー戦の後半にタランティニが負傷したときと、2次リーグのブラジル戦で、中盤のガジェゴが前の試合のレッドカード(退場)のため1試合出場停止になっていたときに、バルバスが代わって出場しただけである。
 問題は、前線の3人だ。
 4年前にケンペスと組んで、奔馬のようにゴール前の密集に切り込んだ、あのルーケが今回はいなかった。そして、その代わりにマラドーナがいた。
 本当なら、ここにはラモン・ディアスがいるはずだった。3年前に日本で開かれたワールドユースで、マラドーナと組んでアルゼンチンを優勝に導き、得点王になったディアスが、代表チームのレギュラーに成長しているはずだった。
 6月13日、バルセロナで行われた開幕試合で、ディアスは期待をになってセンターフォワードの位置にいた。しかし何もできなかった。はじめてのワールドカップのプレッシャーに、押しつぶされたかのようだった。
 ウイングはベルトーニ。これは4年前の選手である。もう1人は、日本のワールドユースに来たカルデロン。ここは、4年前には固定したレギュラーがいなかったポジションである。  

攻撃のスペクタクル
 開幕試合のベルギーとの試合では、ディアスがセンターフォワードで、マラドーナは中盤に下がっていた。
 ディアスはベルギーのオフサイドトラップにはめられ、マラドーナは、ベルギーの巧みな“ゾーンマーキング”にがんじがらめになった。このベルギーの守りは、特定の選手を、マンツーマンできびしくチェックするのではなく、2人がかり、3人がかりでゾーンディフェンスの網の中にしぼり込んでいくやり方である。
 試合は1−0で、ベルギーの守りの勝利に終わった。
 ただし、この結果はアルゼンチンにとっては承服しがたいものだろう。
 62分のベルギーのゴールは、確かに“オフサイド”だった。
 第2戦のハンガリーとの試合では、マラドーナがセンターフォワードに出た。ディアスは、はずされ、ケンペスが中盤に下がった。(第1戦のケンペスは、左ウイングのポジションからプレーした)。
 この試合のアルゼンチンは、本当にすばらしかった。気力をふりしぼり、闘志にあふれ、しかも冷静さを失わずに、個人技を生かした。
 マラドーナもすばらしかった。
 前半、ハンガリーは、マラドーナに小柄なサライをつけていた。おそらく、マラドーナが中盤でプレーするものと思って、運動量で抑えるつもりだったのだろう。しかし、これが失敗だった。
 前線に出てきたマラドーナをサライだけでは抑え切れなくて。ハンガリーは3人、4人とマラドーナに立ち向かわなければならなくなった。
 3、4人の相手に包囲されながらボールをキープし、わずかなスペースを作り、そこヘボールを出して、自らかけ寄って逆サイドヘける。包囲網の中で、自分だけのテクニックで作り出した小さなスペースを利用できるのは、ほんの一瞬のことである。
 しかし、自分のイニシアチブで作り出したスペースだから、相手より一瞬、早く利用できる。それによって逆サイドヘボールを出せば、自分自身が3、4人の相手を引きつけているのだから、味方は大きなスペースを使うことができる。これは、アルディレスも得意とするプレーである。
 ハンガリーとの試合で、マラドーナは、こうして攻撃の原動力となった。アルディレス、ケンペス、ベルトーニと組んで、アルゼンチンは、攻撃的サッカーのスペクタクルを見せた。  

マラドーナの悲劇
 後半になるとハンガリーは、失敗に気付いて、長身のガラバを中盤から下げてマラドーナにあて、カバーも厚くした。マラドーナは今度は、左サイドに出たり、中盤に下がったりしてハンガリーのマークをひきずり、アルゼンチンの攻めは、さらに多彩になった。
 だが、あとでマラドーナを本格的に痛めつけることになる悲劇が、この試合の後半にはもう始まっていた。
 新たにマラドーナをマークすることになったガラバが、シャツを引っぱり、身体に抱きついて、マラドーナのプレーを防ごうとしはじめたのである。
 このあと、エルサルバドルとの試合でも、2次リーグのイタリア、ブラジルとの試合でも、マラドーナはずっとセンターフォワードのポジションでプレーした。
 だが、マラドーナは、やはり10番のポジション、中盤のトップのプレーヤーである。メノッティ監督はそのつもりだったはずである。アルゼンチンは、4年前と同じように、背番号をアルファベット順で登録したが、マラドーナとケンペスには、KとMの順番を入れかえて本来のポジションを示す10番と11番を与えている。
 にもかかわらず、マラドーナを、10番のポジションでなく、9番のポジションに使うことになったのは、ラモン・ディアスが誤算でルーケの代わりにならなかったということだろう。
 6月29日、バルセロナのサリア・スタジアムで行われたイタリアとの対戦は、アルゼンチンの悲劇を、決定的にした試合だった。
 このときも、マラドーナはセンタ−フォワードだった。そのために、イタリアの“殺し屋”ジェンチーレがマラドーナをマークすることになり、マラドーナは、ジェンチーレの反則覚悟の守りに徹底的に痛めつけられた。
 あとでイタリアのベアルツォット監督は「マラドーナがトップだったからジェンチーレをあてたが(もし中盤で)タルデリがマークすることになっていたら、もっと苦戦していただろう」と語っている。
 最後のブラジルとの試合は、メノッティのアルゼンチンが完敗した唯一の試合だった。マラドーナは終了5分前に、味方の他の選手に加えられた反則に対して、報復の反則をして退場させられた。フィールドを出るとき、胸で十字を切って、マラドーナは消えた。
 
     *     *     *

  アルゼンチンの敗因を数えあげたら十指に余るだろう。マルビナス紛争、マラドーナのFCバルセロナの移籍問題、世界チャンピオンとしての立場、外へ出るタイプのウイングがいなかったこと、審判の不手ぎわ……など。
 しかし、一方でアルゼンチンの良さも、たくさんあった。アルディレスに代表される冷静な闘争精神、マラドーナの個人技、パサレラを中心にした守り、攻撃的サッカーの追求など――。
 82年のアルゼンチンは、悲劇的な、心を打つチームだった。


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