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サッカーマガジン 1981年11月号
ビバ!! サッカー!!

女子サッカーに思う
ポートピア大会の健闘を讃えたうえで二つの感想

 ポートピア国際女子サッカーを見た人の感想をあれこれ聞いてみた。
 「スピードもパワーも、まるで違うねえ。日本の女子サッカーでは、永久に勝てないねえ」
 「骨格が違うよ。ぶつかっても、はね飛ばされちゃう」
 「昭和20年代に、スウェーデンのヘルシングボリューとか、ユールゴルデンなんてチームが来て、日本は、まるで歯が立たなかった時代があっただろ。あの頃を思い出したなあ」
 ごもっとも、ごもっとも――。
 ぼくは、ものの本で、日本の水泳や体操が、初めてオリンピックに参加したときの話を思い出した。
 いまから60年以上も前、日本の水泳が1920年、アンベルスのオリンピックに初めて出場したとき、競泳の選手は日本の古式泳法の抜き手で泳ぎ、飛び込みの選手は、台の上にあがって、どうしてよいかわからずに途方に暮れたとか。
 1932年、ロサンゼルス大会に日本の体操選手が初めて行ったとき、あん馬というものを初めて見て、どうやって使うんだろうかと、目を白黒させたとか………。    
 そんなような話を読んだことがあるが、国際試合に参加して、赤っ恥をかいた経験はけっしてムダではなかった。
 日本の水泳、いまはちょっと元気がないけれど、アンベルスの大会に初参加してから10年たたないうちに世界のトップにたちまち追いつき、1932年ロサンゼルスと、1936年ベルリンでは、次から次へとメダルをとった。
 体操も、1960年のローマ・オリンピックから20年にわたって世界の王座に君臨した。
 今度の日本の女子サッカーは、イングランドに0−4、イタリアに0−9と完敗だったけれど、サッカーのやり方は、知っていたんだから、初期の水泳や体操に比べたら、まだましである。20年後、あるいは30年後、今度の試合に出た女の子たちが「あの頃は、ひどかったのよ」と、口では謙虚に、内心には歴史の創始者として誇りを秘めて、後輩に思い出話をしてほしいと思う。
 日本代表女子の健闘を大いにたたえたうえで、感想を二つ。
 ヨーロッパ勢と日本の、もっとも重要な違いは、スピードや体格ではなかった。もちろん、それも違ったけれど、なんたって大事な違いは、攻め方、守り方の基本、つまり、サッカーそのものを知っているかどうかだったんじゃないか。
 もう一つ。
 女子サッカーも年齢別にすべきである。主婦と中学生がいっしょに日本代表チームにはいっているうちは、まだまだ。そして、まず、小学生の女子サッカーチームがたくさん出て来てほしいねえ。

朝鮮蹴球団の20年
厳しい環境を切り開いて友情を広げた努力万歳!

 8月25日に、東京・新宿の京王プラザホテルで「在日朝鮮蹴球団20周年」の記念パーティーが開かれた。
 ぼくは、カン違いをして「30周年」だとばかり思い込んでいたので会場で飾り付けを見て「ふーん。まだ20年しかたっていないのか」と妙な感慨に打たれた。
 若い読者は20年といえば、すっごく長いと思うかもしれないが、在日朝鮮蹴球団の人たちが、さまざまな苦労をなめてきているのを、少しは知っているので、それが「わずか20年の間にあったのか」と、ぼくは思ったわけである。
 ご承知のように、いま朝鮮半島は南北二つに分かれている。本来、一つの国であるべきだが、政治的に二つに分かれているのが現実である。在日朝鮮蹴球団は、日本に住んでいる朝鮮人の中で、北側の朝鮮民主主義人民共和国を祖国としている人たちで作られている。
 そういう背景があるから、在日朝鮮蹴球団は、試合一つするにも、政治的な影響を受けないわけには、いかなかった。
 ひと頃、日本リーグの1部のチームの中には、在日朝鮮蹴球団と試合を避けるところがあった。朝鮮蹴球団は、日本リーグのトップクラスの力は充分あったから、ケガなどを恐れて、公式戦でない試合では、タフな相手とはやりたがらなかった、という事情もある。
 しかし、そういう理由はあったにせよ、やはり、日本のトップクラスのチームの“対戦拒否”に、政治的なにおいがなかったとは言えない。当時は、北側系の朝鮮人は、祖国を訪問することも、外国へ出かけることも認められなかったから、在日朝鮮蹴球団は、なかなか良い相手との試合に恵まれなかった。
 そういう苦難の時代に、粘り強く活動を続け、時にはしたたかさを、時には柔軟さをみせながら、日本中にサッカーの仲間を増やしていった努力は、たいしたものである。 
 彼らにとって苦しい時代だった頃、ある会合で、ぼくは、こう言ったことがある。
 「ぼくが、サッカー記者をしている間に、次の三つのことが実現してほしい。第一に、日本のサッカーチームが、あなた方の祖国を訪問すること、第二に、あなた方の祖国のチームが日本に来ること、そして第三に在日朝鮮蹴球団が祖国を訪問してくること」
 当時は、とても実現しそうになかった、この三つの願いが、とっくに三つとも実現している。ぼくたちが、今後、長く育て、保たなければならない友好に比べれば、20年は、本当に短いというべきかもしれない。


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