アーカイブス・ヘッダー

 

   

サッカーマガジン 1981年4月25日号

ビバ!! サッカー!!

代表監督の好みは?
個性の出なかった日韓戦。将来の方向はどこなのか?

 日本代表チームを指導している森孝慈氏が、まだ日本代表選手だったころのことである。
 ぼくが調子にのって、つまらない放言をした。
 「代表チームの監督なんてえのは、自分の好みで選手を選べばいいんだよ」
 沈着剛毅な森チンのことだから、べつに顔色は変えなかったが、こういうものの言い方には内心、不服だったようで「好みというのは、どうですかね」と、ひと言だけ答えた。
 代表チームの編成が、監督個人の個性やサッカー観によって大きく変わるのは、外国の例をみれば、明らかである。日本では、国際試合で使える選手の層が薄いために、監督が代わってもチームの方は変わりばえしないという例が多かっただけである。
 選手の方の立ち場からいえば、監督が代わったために、代表チームからはずされるのは、珍しくないことで、そのたびに名誉を傷つけられたと思っていたら、多量の精神安定剤が心要である。
 ところで、監督の方の立ち場からみても、数年前のぼくの放言は、必ずしも間違ってはいない――とぼくは信じている。
 代表チームの監督が選手を選ぶのは、新聞記者やファンの投票でベストイレブンを選ぶのとは、ワケが違う。監督は、優秀な選手を上から順に11人選ぶ必要はない。自分のやりたいサッカーをやるのに都合のよい手駒を、お好みしだいで、11枚プラス・アルファ選べばいい。
 これを、ファンの立ち場からいうと、選ばれた代表チームの顔ぶれを見れば、監督のやろうとしているサッカーが推測できるということである。
 昨年5月、渡辺正監督が就任したときの新チームは、前田秀樹君を中心にして若いチームを育てよう、ということのようだった。どんなチームに育てようとしているのかは、はっきりしなかった。
 秋になって、不幸にして渡辺監督は病に倒れたが、ピンチヒッターに立った川淵三郎監督が、戸塚哲也君を起用し、育てようとしているサッカーの方向がわかりかけた。1月のポーランド戦には、その方向が出ていた。
 ところが――。ああ!
 東南アジア遠征の成果を問うはずだった3月8日の日韓定期戦では元の木阿弥だった。
 0−1の敗戦という結果を問題にしているわけではない。結果だけを取りあげれば、むしろ善戦だったと評価していい。
 日韓戦の試合ぶりでは、ポーランド戦のときに示されたような、監督の好みは、うかがわれなかった。将来の方向は示されていなかった。
 森チン。以て如何となす。

プロヘの道はけわしい
多くの人が待望している日本サッカーへのプロ導入は
 
 過去1年間に日本へ来た外国のサッカー関係者が、みな口をそろえたように同じことを言っている。
 「日本にも、プロがなければダメですよ!」
 昨月の5月に、西ドイツから里帰りしたプロ第1号の奥寺康彦もそう言っていた。「企業チームの中で身分を保証されているのは、ぬるま湯につかっているようなもんですよ。体をはってやる気にはならないんだ」
 11月にゼロックス・スーパーサッカーで来日したヨハン・クライフは言っていた。「プロにしなければ強くもならないし、盛んにもならない。お客さんが少ないのはプロがないせいだろう」
 2月のトヨタ・カップのときは、7万人の観衆で国立競技場のスタンドは満員だったが、それでもナシオナル・モンテビデオのムヒカ監督と、ノッティンガム・フォレストのグラフ監督は、同じように、こう語った。
 「日本のお客さんはおとなしくて、もう一つ盛りあがらなかった。たぶん日本にプロがないせいだろう」
 外国のサッカー関係者が、日本のサッカーの低迷の原因を、プロがないことに求めるのは当然である。日本ほど豊かで、組織がしっかりしていて、スポーツが盛んで、しかも体操や柔道のような“技術”がものをいうスポーツが強い国で、なぜサッカーがだめなんだろうか。日本が他の国と違うところは、プロのないことだから、ダメな原因は、ここにあるに違いない――と、こう考えるわけである。
 日本の人たちの間にも、プロ待望論は結構、強くなっている。
 高校サッカーで何度も全国優勝した帝京高の古沼貞雄監督は前から「プロができなきゃ高校サッカーのレベルも、これ以上はなかなか上がらないよ」と言っていたが、最近、高体連(全国高等学校体育連盟)のサッカーのお偉方と懇談していたら“お堅い”と思っていた先生方も、日本のサッカーヘのプロ導入を支持したので、ぼくは少なからず、びっくりした。
 こうしてみると、日本サッカーのプロ化はいまにも実現しそうだが、実は、いろいろ取材してみて、日本サッカー協会あるいは日本リーグの首脳部が、日本中で、いや世界中でもっとも慎重、というか消極的であることに気がついた。
 いちばん肝心なところが慎重だから、道はけわしいともいえるが、けわしい峠を越えるには、あとひと息なのかもしれない。


前の記事へ戻る
アーカイブス目次へ

コピーライツ