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サッカーマガジン 1981年4月10日号

ビバ!! サッカー!!

サッカーの原点とは
ゲーム中心の少年サッカーを育てた古河の実績に脱帽

 「古河サッカーの強さの秘密」について、茨城県古河市サッカー協会の武井克巳会長が、この前の『サッカー・マガジン』(3月25日号)に寄稿された文章を興味深く拝読した。感想をお寄せ下さい、とのことなので、ぼくも、このページを借りて感想を述べさせてもらうことにする。
 武井先生の寄稿は、まじめな、内容のあるもので、ぼくは非常に感銘を受けた。また参考にもなった。子供たちにも読んでもらわなければならない商業雑誌だから、まじめな固い記事に2ページをさくのは、編集部としてはかなり英断だったと思うけれど、その価値はあったと思う。
 編集部万歳!
 「古河サッカーの強さの秘密」の中で、もっとも注目すべき点は、古河のサッカーが「古河市4年生以上男子の65%に当たる」という少年たちを集めた「古河市少年サッカーリーグ」の中から育った――という事実である。
 先生が生徒を教えるだけの“サッカー教室”では、楽しさがないから子供たちは、しだいに離れていく。そこで15人の子供が集まれば、だれでも少年チームを編成できるようにし、それを組織して試合をどんどんやらせるようにした。その結果「サッカーが遊びの中心となり、子供たちの生活の一部となっていった」という。
 子供たちに、サッカーを遊びとして、楽しくやらせる、レッスンとしてでなく、ゲームをやらせる――これがサッカーの原点だと、ぼくは思った。
 少年サッカーをゲーム中心ではじめた理由とその実践経験について述べた部分は、武井先生の記事の中でもっとも心を動かされた。全国で少年サッカーの世話をしている方たちに、ぜひ読んでいただいて、その感想を、お聞きしたいと思う。
 古河のサッカーは、一般に「けって走るパワーのサッカー」であるといわれている。以前に、古河一中が全国中学生大会で優勝したさいに、ぼくも、それについて疑問を書いたことがある。そのときに「しかし古河のサッカーの背後に少年サッカーの広い底辺があることを忘れてならない」とも書いたはずである。武井先生の今回の寄稿を拝見して、ぼくの当時の見方は、間違っていなかった。
 今回の武井先生の寄稿の中でも、「スピードとパワー」を強調した部分は、やはり問題になりそうなところだし、ぼくも、すんなりとは受け入れかねた。
 しかし、「何がサッカーの原点か」というような議論を紙の上でしてもあまり意味はない。少年たちにゲームの楽しさを味わわせ、その中から高校日本一のチームを生んだ実績を評価する方が先だと思う。

主審不問は片手落ち?
ヘボで処罰はしない。けんか両成敗とはワケが違う

 「サッカー協会はレフェリーの方は処罰しなかったのかね。片手落ちじゃないか」
 こういうことをいう友人が2、3にとどまらないうえ、『サッカー・マガジン』の読者の投稿にも、同じような意見が載っていたので、いささかタイミングは遅れたが、取りあげることにする。話というのは、昨年の日本リーグ最終日、西が丘サッカー場で起きたトラブルについてのことである。
 明らかにハンドリングの反則と思われるプレーを主審が見落とした。それに激怒した一方のチームの部長さんがベンチから飛び出し、フィールドの中に入ってトラブルを起こした。
 その部長さんに対しては、軽いものではあるが、処分があった。ここまでは、前に紹介したことがある。
 友人たちは、その続きがあるはずだ、それを書かないのか、というのである。
 つまり、チョンボした主審の方への処分はなかったのか、というわけである。
 お答えしまーす!
 「主審に対する処置は公表されておりません。処罰を行う必要はないし、処罰するのは間違いです」
 問題のプレーは、記者席にいたぼくの目から見れば、明らかにハンドリングで、主審が見のがしたのは“誤審”だった。チョンボだった。不手ぎわだった。
 しかしである。
 これは、要するに主審が“ヘボ”だったということであって、フィールドに入り込んでトラブルを起こした規則違反と同列に論ずるわけにはいかない。
 ヘボをいちいち処罰するのなら、選手の方は1試合に5人も6人も処罰しなければならない。パスがヘボでボールを相手に献上したり、シュートがヘボでゴールのはるか上空にけり出したり、かぞえたてたらきりかないだろう。
 ぼくたちの仕事にしたって、原稿がヘボだからといって、そのたびに出勤停止になっていたらメシの食いあげである。
 「でも、お前は、ヘボな原稿ばかり書いてたら、載せてもらえないし、そのうち配置転換になるんじゃないの」
 と友人は食い下がる。
 そう、そのとおり。
 審判員もチョンボをすれば、次の試合には使ってもらえないことがあるし、ヘボが重なれば、審判員をやめてほかの仕事にまわってもらうこともある。でも、これは、一つの処置ではあるが“処罰”とは性質が違う。
 “処罰”とは違って“処置”の方は公表されない。公表すれば、処罰と同じ効果を持つことになってしまうからである。


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