クライフの秘密
気楽な親善試合だから味わえた、すごいプレーの原点
来日したワシントン・ディプロマッツの試合の感想は「クライフのすごさの秘密を見た」ということである。
クライフのプレーは、1974年の西ドイツのワールドカップでも、たっぷり見た。このときのクライフは、もちろん、すごかった。これはもう、歴史的事実である。
しかし、今度のゼロックス・スーパーサッカーで見たクライフには、6年前に見たクライフよりも、面白いところがあった。「そんなバカなことを」といわれそうだが、これは率直なぼくの印象である。
6年前は、世界一をかけたタイトルマッチだった。開催国の隣国のオランダは、地の利を得て充分な準備をしていた。クライフ自身も絶頂期だった。
あのときのクライフを、今回と比べられるはずがない。今回は寄せ集め軍団の、シーズンオフのエキシビション旅行である。過密日程で体調も悪い。親善試合で、そういいところを見せるわけには、いかないだろう――と、ぼくも最初は思っていたのだが、神戸でのヤンマーとの試合をテレビで見て考えが変わった。
逆説的ないい方だが、気楽な親善試合だから、かえって6年前の真剣勝負のときには隠れていたものを、こっちが見つけることができたのではないかと思う。
タイトルマッチでは、ともに体力、気力の限りを尽くして争うから、闘争のすさまじさは目をみはるばかりだし、その中で発揮されるスーパースターのスピードあふれるテクニックには驚嘆のほかはない。
しかし、体力の頂点での激しい争いのために、スピードあふれるプレーのもとになっているはずの、なにげないボール扱いの巧さや、判断力の良さの一つ一つを、ゆっくり味わうひまがない。
今度来日したクライフは、親善試合で気楽にやっていたから、ワールドカップでやった激しいプレーのスロービデオを見るようなところがあって、それがかえって面白かった。6年の間にプレーの質が変わったところもあるだろうが、中盤でボールを扱う姿勢のバランスの良さ、状況をよむ判断力の的確さが、一つひとつくっきりと浮き出していた。クライフのすごさの“もと”を見たような気がする。
このクライフを、日本の若いスポーツマンに見てもらえたのが、非常に有益だったことは疑いないが、ここで一つ珍談を紹介すると、日本体育協会のアマチュア委員長は、今度の試合に文句をつけたのだそうである。
理由は「ゼロックス」という商品名を大会につけてプロと試合するのは良くない、というのだが、ぼくは、クライフを見せてくれたスポンサーに大いに感謝こそすれ、苦情をいう筋合いは、まったくないと思う。
プロ化論議は大歓迎
テニスのプレーヤーズ制度導入の時の努力を見習え!
日本サッカー協会の機関誌『サッカー』の最近号に、上下2回に分けて「日本サッカーヘのプロ導入」というタイトルの座談会が載った。プロ問題をタブーにしないで、大いに議論しようという姿勢は、大歓迎である。
それで思い出したのは、日本のテニスが“プレーヤーズ制度”を採用したころのことだ。
テニスの“プレーヤーズ制度”というのは、プロの選手を各国の庭球協会に登録させる制度のことである。テニスでは、協会に登録したプロを“プレーヤー”と呼び、大会で資金を受けとることを認めている。
国際庭球連盟は、1968年にこのプレーヤーズ制度を設けたのだが、日本では、その後も、日本庭球協会が、なかなか、この制度をとり入れようとしなかった。
その結果、いろいろと不都合なことが起きた。
たとえば、そのころ日本の女子のスター選手だった沢松和子さんである。沢松さんははじめのうちは、日本国内では「アマチュア」として登録していた。日本庭球協会が、アマチュアの登録しか認めないのだから仕方がない。
アマチュアだから賞金はもらえないはずだけれど、外国の大会に出場したときは、ちゃんと賞金を受け取っていた。外国へ行くために、お金がかかっているのだから、もらえる賞金をもらわない手はない。そこで外国の大会に参加するときには、参加申し込み書の「プレーヤー」の欄にサインしていたわけである。日本庭球協会は、これを黙認していた。つまり、日本国内ではアマチュア、外国ではプレーヤーという二枚鑑札である。
こういうことは不合理だというので、国際事情に通じている若手の協会幹部が、日本でも「プレーヤーズ制度」を採用させようと、保守的なオールドパワーを相手に一生懸命努力した。
ぼくは、その片棒のはじっこをかつぐつもりで、ベースボール・マガジン社から出ている『テニス・マガジン』に2年がかりで「ブロとアマチュア」というタイトルの連載をしたことがある。
ぼくが感謝しているのは、テニス界の外の人間であるぼくの連載を、テニス界の内部の人がよく読んで耳を傾けてくれたことである。
いまでは、日本の庭球界に、まがりなりにも「プレーヤーズ制度」が導入されている。
日本サッカー協会の内部で「プロ導入」の論議が活発に行われるのは結構なことである。
だが、それにつけても外部の声にも広く耳を傾ける姿勢が欲しいと思う。
協会が発行している雑誌の記事の中に、プロ化を求める声を「短絡した議論」だとか「安易にプロを作れといっている」と表現している部分があった。予断を持ってきめつける前に、多くの人の声をよく聞いてみたほうがいい。
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