広島力−プ万歳!
外のものを取り入れたサッカー出身、重松代表の成功
プロ野球のセントラル・リーグで広島カープがV2を成しとげた。日本シリーズでは近鉄に先手をとられながらも逆転して2年連続の日本一。たいしたものである。
最近のカープは、ファームの指導者の充実や室内練習場の整備など、じみなところでも、他の球団に先がけて手をうっている。それか優勝に結びついたのだと思う。
この広島カープの球団代表が、かつてのサッカーの日本代表選手であり、日本サッカーリーグの2代目の総務主事だった重松良典氏であることを、ご存じだろうか。
シゲさんが、東洋工業からカープの代表に転出したのは、昭和49年。“セーリーグのお荷物”といわれたこともあるカープが、その後の7年間に3度も優勝した。広島カープ万歳ではない。ぼくにとっては「シゲさん万歳」である。
重松代表は、就任の翌年、監督にアメリカ人のジョー・ルーツを起用した。日本のプロ野球の外人監督はこれが初めてだった。
その年の春のキャンプめぐりの取材に行って、宮崎県日南市の広島カープのキャンプ地で、重松代表の話を聞いたことがある。
「なぜ外人監督起用に踏み切ったのか」という、ぼくの質問に、重松代表は、こう答えた。
「この仕事を始めてわかったんじゃが、日本のプロ野球は、お盆の中でやっとるようなもんよ」
「どうして?」
「お盆の中で、がちゃがちゃやっとるもんが、具合が悪くなるとお盆のふちに出て、ぴょんととまるのよ」
「?」
「そのうち、中でやってるもんが具合悪くなると、ふちに出てとまる。入れ代わりに、いままで、ふちにとまってたのがはいってくるだけじゃ」
「なるほど。言えるな」
「だから監督が代わっても、新しいものは何も持ってこん」
「うーむ」
「ルーツじゃ、うまくいかんかもしれん。しかし、出ていくとき、お盆の中に、いままで日本のプロ野球になかったものを置いていくかもしれん」
そのあと鹿児島県のヤクルトのキャンプに行って、当時コーチだった広岡達朗氏にこの話をしたら「そのとおりですよ」と言っていた。
ルーツ監督は、その年の5月にもう、お盆から飛び出したが、あとを引き継いだ古葉監督の手で、カープは初優勝した。
「お盆の中でやってるだけ」というこの話。最近の日本のサッカーに当てはまるのではないだろうか。
故竹腰氏へのおわび
ノコさんの本を出版する計画が実現できなかったこと
「ぼくは、はるか末輩だからノコさんの追悼記事を書く資格はない。その代わり、『ビバ!! サッカー』を休んでページを提供するから、竹腰重丸氏追悼特集を大きく載せてもらえないだろうか」
サッカー・マガジン編集部が、ぼくの頼みを聞き入れてくれたので、先号に『偉大なノコさんを悼む』の特集を組むことができた。 先号『ビバ!! サッカー』を休載したのは、そのためである。毎号読んでいただいている方には、おわびしたい。
さて、日本のサッカーの歴史をになった竹腰大先輩からみると、はるかに末輩のぼくが、追悼文を書くわけにはいかないのだけれど、先号の特集を読んで、どうしても、一つだけ、書いておかなければならないという気持になった。
それは、あの特集の中の、35ページに載っている3枚の写真のことである。
「竹腰氏のアルバムから」とタイトルをつけて載っていた、あの3枚の写真は、いずれも竹腰氏の若いころのもので、日本サッカー史の貴重な資料である。
実は、あの3枚の写真を含めて、竹腰さんは、自分の持っていたサッカーの写真のほとんど全部を5年ほど前に、サッカー・マガジンの当時の編集長だった堀内征一氏(現ベースボール・マガジン社出版局長)に預けた。
「自分に万一のことがあったとき日本のサッカー史にとって貴重なものになるかもしれない写真が散りぢりになってはいけない」という気持だったと思う。
その話をきいて、ぼくは堀内氏といっしょに、駒込の竹腰さんの自宅に、おうかがいして「日本のサッカーの歴史に残るように、竹腰さんにぜひとも本を1冊書いていただきたい」と、お願いしたことがある。その本の中で、貴重な写真も印刷にして残しておきたい、というつもりだった。
ベストセラーになるような性質の本ではないから、商業出版が無理だったら、東大OBやサッカー関係者の寄付を集めて、私費出版してもいいと考えていた。
手はじめに「本郷の旅館の一室でも借りて、写真を部屋いっぱいに並べて分類整理しようや」と話していたのだが、ノコさんが病に倒れたので、回復したら、すぐ始めようと思いながら、そのままになってしまった。
いまからでも、貴重な資料や写真を集めて、その業績を後世に残すようにしなければならないと思うが、生前にできなかったことが悔やまれてならない。
10月23日に、岸記念体育会館で日本サッカー協会葬が盛大に営まれた。
サッカー関係者、体育界の先生たち、東大関係者などが多勢集まった中で「これは、お別れの会でなく、本来は出版記念会にしなければならなかったのに」と、ぼくは、力の足りなかったことを恥じて、すみっこで小さくなっていた。
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