テレビ中継への注文
教育的配慮はほどほどに楽しい中継をしてほしい
夏休みを飾った高校総体のサッカー決勝と中学校大会の準決勝、決勝をテレビで観戦した。
たいして視聴率の期待できないものを取り上げてくれているNHKに対しては、感謝の気持でいっぱいである。したがって苦情を申し述べる筋合いは、さらさらないのだが、国内のサッカー試合のテレビ中継をじっくり見る機会を久しぶりに得たので、いささか感想めいたものを述べさせていただきたい。
前にも書いたことがあるけれど、画面でみてわかることをアナウンサーが、ことごとくしゃべることはないと思う。「中盤での激しいボールの奪い合いです」「シュートが大きくはずれました」というようなことは言わなくても見ればわかる。
それよりも、画面に映っている選手の名前をしゃべってもらいたい。というのは、画面では、背番号が小さくてだれがだれだか、さっぱりわからないからである。プレーのたびに、その選手の名前をいってくれれば、しだいに走るかっこうやくせで、選手の個性が見分けられるようになるだろうと思う。
「サッカーはチームプレーだから個人の名前はできるだけ言わない」というような“教育的配慮”をしているんだったら、とんでもない見当違いである。サッカーのチームプレーは、一人ひとりの個性的なプレーの組み合わせである。チームプレーの“もと”を伝えてくれなくては、チームプレーもわからない。
教育的配慮といえば、基礎的なルールの解説は、これだけサッカーが普及した現在では、もう必要ないんじゃないか。中学校大会の中継のときに「オフサイドというのは……」と説明していたが、サッカーのテレビ中継を見る人は、オフサイドぐらいはたいてい知っている。
中学校大会の準決勝は松本育夫氏が、決勝は平木隆三氏が、それぞれ解説者として出演していた。両氏とも協会の技術委員会の主要スタッフである。
両氏とも解説はなかなか上手だったし、的を得ていた。ただ、立場上当然のことではあるが、これも話の内容は教育的(ないし啓蒙的)である。偉い肩書きの人が大所高所から話をするのを聞くとサッカーを楽しむつもりでいたのに、なんだかブラウン管の前で正座しなくちゃならない気持になる。
そういうわけで、NHKのテレビ中継には深く感謝しているが、欲ばった注文をつけさせてもらえるなら、もう少し、おしゃべりを控えめにして、画面を中心にサッカーそのものを、そしてサッカーの楽しさを伝えてほしい、ということである。
NTC計画への疑問
モスクワの野菜不足で連想した中央集権的強化の弱点
またモスクワの話で恐縮しちゃうけど。オリンピックの取材でモスクワに行ってびっくりしたのは、この町には野菜がないことである。
オリンピックのために来ている外国人のためには、かなり無理して野菜を提供してくれていたらしいけれども種類が少ない。ジャガイモとかトマトのような重量感のある野菜は比較的よく出まわっているのだが、軽くて新鮮な生野菜は、一般のモスクワ市民にとっては、非常な貴重品だという話だった。
経済問題については、ぼくたちはシロートだけれど、シロートなりに考えた。
「ロシアの農民は、小松菜とかサヤエンドウのような野菜は作らないんだろうかね?」
「作らないことはないだろうけど……でもジャガイモやトマトのほうがトクなんじゃない」
「どうして?」
「この国は計画経済だからね。お役所の決めたノルマ(生産基準量)に応じて農産物を作るんじゃないかな。ノルマを重さで決めるから、重くて、たくさんできるジャガイモを作ったほうがトクなんじゃないか」
「そういえば、レストランでウオツカを注文したら、何グラムですかって、きかれたね。この国はなんでも重さで評価するのかな」
まさか、なんでも重さで決めるわけじゃないだろうけど、野菜の生産と流通がうまくいっていないことはソ連の人たちも認めていた。
野菜の話がサッカーにどんな関係があるのかといわれそうだけど、ぼくがモスクワの野菜不足で連想したのは、実は日本サッカー協会のナショナル・トレーニングセンターの計画である。
中央の偉い専門家が、全国のことを充分に考えて計画をたて、各地に指令を発して、その通りにやらせれば万事うまくいきそうなものだが、人間の社会は、そう計算どおりには動かないのだ。日本のように、各地の農民がそれぞれ自分で工夫をこらし、自由にいろいろな品種の作物を市場に出したほうが、豊富に野菜が出まわるようである。
ここで社会主義経済と自由主義経済の長短を論じるつもりはないが、サッカーについても似たようなことがあるのではないかと考えた。
日本サッカー協会は、ナショナルトレーニングセンター(NTC)の構想を作り、中学生のうちから優秀選手を指定して、中央の指導者の一貫した方針のもとに、国際的レベルの選手を育成しようとしている。
しかし、この中央集権的計画がうまくいくものだろうか。
各地のチームの指導者が、それぞれに工夫をこらして選手を育て、チームを強くしたほうが、豊かで多彩なサッカーを生むだろうと、ぼくは思うんだけど――。
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