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サッカーマガジン 1979年8月10日号

時評 サッカージャーナル

サミットとサッカー

中島健蔵氏の死去
 先日、フランス文学者の中島健蔵氏が亡くなられた。中島さんは東大サッカー部のOBである。そのことを知っている人は、少ないだろうと思う。どの新聞にも追悼記事が出ていたけれど、フランス文学についての業績や、中国との文化交流に尽くした功労だけが書いてあって、若いころスポーツマンだったことに触れたのは見あたらなかった。
 ただ、告別式の記事の中に「日本バレーボール協会からの花輪も飾られ、広い分野にわたった功績がしのばれた」という文章があった。しかし、中島さんは、とくにバレーボールと関係があったわけではない。日中文化交流協会の理事長として、戦後の中国とのスポーツ交流の世話をした。その中にバレーボールも含まれていたにすぎない。中島さんの一番愛したスポーツは、サッカーである。
 1957年に、サッカーの日本代表チームが初めて、中華人民共和国を訪問した。竹腰重丸氏が団長だった。日中スポーツ交流の先がけだったと思う。その道を開いてくれたのも中島さんである。
 そのころ中島さんが中国で「ぼくは、日本で1番強いサッカーチームのマネジャーだった。竹腰君は、そのときの選手だ」といって、中国のスポーツ関係者から大いに尊敬を集め、竹腰さんをくやしがらせたという話がある。
 マネジャーは英語では本来「監督」という意味だから、中島監督が、竹腰選手を使って優勝したという感じになったわけだ。実際には中島さんが昭和3年東大卒業、竹腰さんが昭和4年卒業で、1年先輩だったにすぎない。当時の東大は、大正15年から昭和6年まで、関東大学リーグで6連覇を記録した黄金時代だった。“実力日本一”だったというのは、誇張ではない。
 文化人として大きな功績を残した人だから、スポーツマンとしての経歴が新聞にのらなかったのはやむを得ないのだけれども、バレーボールの花輪の話が載っていたのは、サッカー狂のはしくれのぼくとしては、納得いかなかった。サッカー関係の花輪は、目につかなかったのだろうか。
 サッカー狂といえば、田辺製薬の会長だった田辺五兵衛氏は、その元祖のような人だった。数年前に亡くなられたが、生前、見るもの聞くもの、すべてサッカーに結びつけてしまう話しぶりに、ぼくは、いつも敬服させられていた。町を歩いていたら「サッカー」と大書した広告がある。「おやっ」と思って、目をこらしたら。1字違いで「リッカー」というミシンの広告だったそうである。サッカー狂も、これくらいにならないと本物でない。
 田辺さんが生きておられたら、先日開かれた「東京サミット」は「東京サッカー」に、この会議に来日したイギリスのサッチャー首相は、サッカー首相になりかねない。 
 ところで、あの東京サミットの膨大な新聞記事の中にサッカーが登場したのを、ご存知だろうか。
 首脳会談と直接関係はないのだが、アメリカのカーター大統領が伊豆の下田で、タウン・ミーティングをしたときのことである。
 小学生の参加者が「アメリカの子供たちは、どんな遊びをしてますか」と質問したのに対して、大統領は、こう答えたのだ。
 「近ごろは、サッカーも盛んになってきましたよ」
 やった!てなもんである。
 それにしても、アメリカの政治家は、大衆に対する宣伝、というか、パブリシティがなんとうまいんだろう。日本サッカー協会も少しは見習ってほしいものだ。

首脳と大衆
 サミットとは、山の頂上のことである。日本の新聞は、これを首脳会談と訳しているが、これは、ちょっと違うんじゃないか。
 首脳、つまり頭は、手足を支配しているが、頂上は広いすそ野に支えられて存在している。どちらが民主的かは、説明するまでもないだろう。
 サッカーは、大衆のスポーツであり、世界中どこへ行っても、大衆によって支えられている。そうでなければ、盛んにもならないし強くもならない。昨年のワールドカップで優勝したアルゼンチンのメノッティ監督が、本誌に連載中の手記の中で、繰り返し「大衆に支持されるサッカー」について述べているのも、そのためである。
 そういうわけだから、大統領がタウン・ミーティングをやるような国では、サッカーが急速に伸びていくが、サミットを「首脳」と訳すような国では、サッカーは盛んにならないんじゃないか、と悲観的なことを考えたりした。そんなことにならないよう、日本サッカー協会の“首脳”は、せいぜいタウン・ミーティングを開いて、大衆の声に耳を傾ける努力をしてもらいたいと思う。
 とはいっても、この国はまだ大衆よりも首脳のほうが大事にされる。影響力も大きいようだから、サミットに立っている人たちを、サッカーのために利用することも考えなければならない。
 中島健蔵さんも。田辺五兵衛さんも、それぞれの世界でサミットに立った人だけれども、この先輩たちを、日本サッカー協会が礼を厚くして遇し、常に協力を求め、助言を仰いでいたかといえば、ぼくには、そうは思えなかった。サッカー界が、十分にこの力をお借りしないうちに、また、サッカー界の功績に十分に報いることができないうちに、亡くなられたのは誠に残念である。
 ぼくの勤めている新聞社のお偉方の中にも、若いころにサッカーをやった人がいる。先ごろ、アメリカの元国務長官のヘンリー・キッシンジャー氏が来日したときのパーティーで「サッカーの話をするんだ」と運動部に来て、最近のサッカーの情報を仕入れて出かけた。キッシンジャー氏が、サッカー・ファンであることは、よく知られている。アメリカのサッカー界では、キッシンジャー氏を役職に引き込んで、利用といっちゃあ悪いが、協力してもらっているようである。


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