日本代表チームの監督が交代した。10月に予定されているモスクワ・オリンピック予選まで、あと8カ月の時点での路線転換である。二宮監督辞任の真相は何か。この監督交代劇は何を意味するのか。そして、これまでの教訓を生かして新しい指導スタッフに何を望むべきか―― 二宮全日本の2年10カ月を振り返りながら考えてみたい。
バンコクで心を決めた
2月1日の日本サッカー協会理事会で、監督辞任が決まった翌朝、二宮寛氏に会った。浅黒く男らしい顔立ちと、人なつっこい笑顔は相変わらずだが、心なしか、少しやつれたようである。
「バンコクのアジア大会で韓国に敗れたとき、すでに辞任することを考えていた。向こうで協会の首脳部と話をして、はっきり口に出して辞任を申し出たわけではないけれども、自分の心境は伝えたつもりだ」
いさぎよく、淡々とした口調だった。
聞くところによると、バンコクで協会の藤田静夫副会長と進退問題が話し合われ、日本へ帰ってから、昨年暮れのうちに、長沼健専務理事、下村幸男強化部長などと話し合いがあったようだ。
しかし、二宮監督は、日本サッカー協会が三菱から借りてきて、働いてもらっている人間である。給料は三菱で払い、仕事は日本サッカー協会のためにしている。それも「モスクワ・オリンピックのために」ということだから、その仕事を途中でやめるには、まず三菱のほうに、あいさつをしなければならない。そういうようなことで、1月いっぱいかかったという。
口ぶりは淡々としていたけれども、二宮監督の本当の胸中は、断腸の思いだろうと推察した。
「51年の4月に監督を引き受けたとき、最初の2年間くらいは、なるべく多くの選手に日本代表チームにトライしてもらいたいと思った。そして最後の1年で、がっちりチームを固めて戦うつもりだった」
こういう構想を持っていた二宮監督にしてみれば、まさにチームを固めてスタートした矢先の時点に退くことになったのは、本当は非常に不本意だったのではないだろうか。
しかも、代表チームの成績不振は監督だけの責任とはいえないのだ。
杉山が去り、釜本が去り、そのあとを埋める若手のスターが出てこない時期の監督に選ばれたこと。ひところのブームの反動で大衆の支持も少なかったこと。選手を抱えている日本リーグのチームのエゴが目立ちはじめていたこと。東京オリンピックの日本チームを指導したデットマール・クラーマー氏の教え子たちが、若手の指導者として育ちはじめた中で、クラーマー直系でない二宮監督は異質だったこと。
そういう、いろいろな事情から、表面的には、思うようにやらせてもらって恵まれた条件を与えられているようにみえても、内実には、さまざまなハンディがあった。
代表チームの監督には、4つのサポートが必要である。
大衆の支持、協会の支持、クラブ(選手の所属しているチーム)の支持、そして選手たちの支持――二宮監督の場合、この四つの柱は、どれも十分に強力とはいえなかった。
二宮監督の成功と失敗
2年10カ月の在任中に起きたさまざまな出来事について、現在の時点であれこれ釈明することを、二宮監督自身は、いさぎよしとしないだろう。ただ将来のために、二宮全日本をふり返って、問題になった、いくつかのことを書き留めておこう。
@就任直後、釜本選手が代表チームに残るかどうかが問題になった。釜本の残留を前提にチームを引き受けるか、それとも釜本を切り捨てて新しいチーム作りを目指すか。これは就任前に決断すべき事柄だった。
A二宮全日本は、コーチング・スタッフをついに持たなかった。これは「船長1人でやったほうがいい」という二宮丸の方針だったようだ。はじめは選手の名目で加わっていた三菱の大仁コーチが補佐したが、これは事務長であって一等航海士ではなかった。二宮監督の師事した西ドイツのバイスバイラー監督が、ボルシア・メンヘングラッドバッハのチームを1人でとりしきったのにならったのかもしれない。しかしナショナル・チームの場合は、先にあげた四つの支持を得るために、まず、障害と闘わなくてはならない。その闘いの中で自分自身を守るためにも、強力な腹心のスタッフを固める必要がある。
Bヨーロッパでの長期合宿で、選手たちを西ドイツのプロ・チームに分散して預けた。これは二宮監督でなければできないアイデアで、成果もあった。自分自身のものを持っている選手にとっては、力を伸ばす絶好のチャンスになった。だが、そうでない選手は、監督の目から離れ、お客様扱いにされて自分を甘やかす結果にもなった。
C奥寺選手がプロ入りした。ムルデカ大会の得点王になり、西ドイツの分散合宿で1FCケルンに認められた奥寺康彦選手の成長は、二宮監督の残した大きな成果である。その奥寺選手が日本の選手のプロ第1号として西ドイツへ去ったのは、日本のサッカーの将来という長い目で見れば画期的なことだった。だが「オリンピックに勝つチームを作る」ことを引き受けた代表チームの監督が、プロ入りを推進し、付き添って行ったのは、少なくとも外部の目には奇異な感じだった。
Dクラブと選手の協力が十分でなかった。フジタの選手が参加を断ったり、読売クラブの選手が、1度チャンスを与えられながら2度目には加わらなかったことがあった。それぞれ事情はあっただろうが、日の丸を胸につけることの誇りと、代表チームの魅力は、どうなっているのだろうかと思わせる出来事だった。思うように協力が得られないために、じっくりチームを育てることができず、監督の出身チーム三菱中心の起用が目立った。急場しのぎにベテランの細谷をセンターフォワードに復帰させたことがあったのは、その例である。
E技術委員会の岡野−二宮ラインが、途中から平木−下村−二宮に代わった。技術委員長だった岡野俊一郎氏が、日本オリンピック委員会(JOC)の総務主事に選ばれ、サッカーの仕事に専念できなくなったためだが、それまで監督が兼ねていた強化部長に下村幸男氏が入り、監督に対して2人のお目付役がついた印象を与えた。これは協会からの支持を強化するよりも二宮監督の孤立を深める結果になったのではないだろうか。
このほかにも、表面に出ないことがいくつかあっただろうと想像される。
こういう出来事は、ムルデカ大会やヨーロッパでの合宿や昨年のジャパン・カップで示された二宮全日本の成果を帳消しにするものでは、もちろんない。
むしろ、このようなハンディと戦って残した成果を評価する必要があるだろう。
しかし、タイトルをかけた試合で当たらなければならない宿命の韓国の壁は厚かった。韓国はいま、同国史上最強といわれる代表チームを持っている。これに勝つために、日本サッカー協会は、決戦8カ月前の敵前旋回を決断したわけである。
最後の大きなギャンブル
今回の監督交代劇は、二宮監督の自発的辞任というよりも、協会のほうの責任で詰め腹を切らせたとみていいようだ。
このような例は、外国ではそれほど珍しくない。1970年のワールドカップのとき、ブラジルは大会を3カ月後に控えてサルダーニャ監督を解任してマリオ・ザガロを起用して優勝した。
1974年のオランダは、半年前にリヌス・ミケルスを起用して2位になった。
この二つは、敵前旋回が成功した例である。成功した場合、前任者は協力者の努力の上に組み立てられた成功であっても、新監督の功績だけ称えられる。それが、この世界の例である。
逆に、失敗した場合は、当然、敵前旋回をした協会の責任が追及される。
長沼−平木−下村体制は、10月のオリンピック予選で、新しい全日本が完敗した場合、すべての責任を負う覚悟で決断したにちがいない。
ところで今回の監督交代は「韓国に勝つチームを作る」ことを大義名分として行われた。これは日本代表チーム強化策の、大きな路線転換ではないだろうか。
1964年の東京オリンピックのために招いた西ドイツのクラーマー・コーチのおかげで、日本のサッカーは、はじめて国際的になり、長沼、岡野、平木、八重樫といったクラーマー直弟子が、監督、コーチとしてその路線を引き継いできた。
二宮監督はクラーマーの直弟子ではなく、西ドイツではクラーマーと対照的だといわれているバイスバイラーに師事した。そういう意味で3年前の二宮起用は、一つの路線転換だった。
しかし、クラーマーもバイスバイラーも同じ西ドイツの人である。「アジアの中だけで勝つことだけを考えたのでは、世界のサッカーには追いつけない」という思想は同じだったように思われる。
クラーマーは、東京オリンピックのあとで日本を去るときに「毎年1度は、日本代表チームをヨーロッパに送らなければならない」と言い残した。
バイスバイラーも、自分の教えた三菱の選手たちを毎年のようにヨーロッパヘ呼んだ。だから、ヨーロッパ指向という点では、二宮監督の間も、路線は変わらなかった。
ところが、長沼専務理事の話では「韓国に勝つチームを作ることに焦点をしぼる」と強化部会の意見が一致して、監督交代を決断したのだそうだ。
ヨーロッパと同じレベルのチームを作ることができれば、アジアで勝てるだろう。だが逆は必ずしも真ではない。アジアで勝つチームを作っても、それはヨーロッパのレベルに通じる道とは限らない。そういう考えで、日本のサッカーの強化は、これまでは進められてきた。その成果の一つが、メキシコ・オリンピックの銅メダルになって実っているが、しかし、一方で日本代表チームは、まだアジアのタイトルを握ったことがない。
あと8カ月の時点になって、とにかく韓国を破ることに集中する以外に道はなくなったが、背に腹はかえられない。モスクワに行って、ヨーロッパのチームに善戦することを考える余裕はない。モスクワへ行くには、その前に切符を買わなければならない。切符を買うために財布の底をはたこう。モスクワへ行けた場合の食いぶちは、切符を買ったあとで考えよう。たとえていえば、そういうことである。
そうだとすれば、今回の路線転換は、クラーマー以後の遺産を食いつぶし尽くす寸前の最後の大きな賭けかもしれない。
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