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サッカーマガジン 1979年1月10日号

時評 サッカージャーナル

アジア大会に期待はできない

大きな三つの失望
 ソ連代表チームを迎えて行われた日ソ対抗の第1戦と第2戦を東京の国立競技場で見た。大阪の最終戦は見に行けなかったけれど新聞記事で見た限り、1、2戦と内容にたいして違いはなかったようだ。結論をいえば、「大いなる失望」である。
 失望したわけが、いろいろたくさんある中で、大きな三つの失望は次のとおりだ。
 第一に、1975年のヨーロッパ最優秀選手、オレグ・ブロヒンのプレーが見られなかったこと。ブロヒンは第2戦に、ソ連が4−0とリードしたあと、最後の15分間だけ登場したが、疾風枯れ葉をまく突破力には、ほど遠かった。だけど、まあ、ケガしてるというんだから、これは仕方がない。
 失望の第二は、日本代表チームの試合ぶりだ。3戦全敗は、はじめから予想されていたとおり。得点差は、たまたま3試合とも3点だったが、かりに10−0であったとしても、1−0であったとしても、同じことだろう。内容からみて、レベルに大きな差のあることは、明らかだった。しかし、失望したのは、日ソに力の差があることではなく、アジア大会を目前にした日本代表チームが良くなっているどころか、かえって下り坂のように思われたことである。
 第三の失望はスタンドの観衆が少なかったことだ。東京国立競技場の第1戦は8000人、第2戦は9000人と発表されたが、日本サッカー協会のおひざ元の東京で代表チーム同士の国際試合が、これでは少なすぎる。スタンドが寂しいとムードは盛り上がらない。ムードが盛り上がらないと、いいプレーも出ないものだ。両日ともお天気は悪くなかった。PRの仕方についても、入場券販売の努力についても、現在の日本サッカー協会の幹部は、まったく無能力だといっていい。
 この「三つの失望」の一つ一つについて、くどくどと不満を述べても、きりがないから、ここでは日本代表チームの試合ぶりについて、もう少し書いておこう。
 なにしろ、この原稿が活字になるころには、日本代表チームはバンコクに行っている。アジア大会で惨敗してから悪口を書いても、証文の出し遅れで、結果論になるだろう。いまのうちに手きびしく書いておいて、それが見当はずれになり、金メダルをとって帰ってくれば、こんな結構なことはない。そうなれば喜んでシャッポを脱ぐけど、悲しいかな、そんな奇跡は起きそうもないな。
 日ソ対抗の日本代表チームを見て「これはダだ」と思ったのは試合ぶりに、あまりにも特徴がなかったからである。どの選手にボールが渡っても、同じようにパスし、同じように走る。いわば単調である。攻守の組み立てが単調なだけでなく、時間帯の使い方も単調だ。キックオフからタイムアップまで、同じようなリズムで戦おうとする。
 お相撲では、力士によって「右を差せば負けない」とか「左上手をとれば断然」というような、得意の型がある。「右差しでも、左差しでも」というナマクラ四ツの相撲取りもいるけれど、きわ立った得意ワザを持たないと三役にはなれないし、人気も出ないようである。
 サッカーだって同じことだ、チームとしての得意ワザがなければ迫力のある試合はできないし、メダルをとるのは夢である。
 1974年のオランダには「ミケルスのサッカー」があり。1978年のアルゼンチンには「メノッティのサッカー」があった。しかし、日ソ対抗の日本代表チームに「二宮のサッカー」は感じられなかった。

核になるのはだれか
 「金田はいいねえ、あのドリブルは他の選手にないものだな。二宮は金田を軸にしたチームをつくるべきじゃないか」
 第1戦を見ながら、ある大先輩の記者がこういった。新聞記者は社内で偉くなると現場を離れる。したがって、この大先輩も、ふだんは、あまり試合を見に来るチャンスがないため、日本代表にはいってから、かなりになる中大の金田喜稔君の独特なドリブルが、ことさら新鮮に映ったのだと思う。
 大先輩の観察は、もちろん間違っていない。金田を軸にするチームづくりは、一つの有力な方法であり、将来の日本代表チームが、そうなる可能性は非常に大きいと思う。
 ただし、ぼくの考えでは、アジア大会を目前に控えた、この時点では、もうあまりに時間がなさすぎる。
 金田のドリブルをチームの核にするためには、まわりの選手たちを大改造しなくてはならないし、チーム全体のリズムを変えなければならない。それは、いまとなっては、もう無理である。
 ただ、得意ワザを持った、特徴のあるチームをつくるためには、その得意ワザの核になるスタープレーヤーは絶対に必要である。“核なしサッカー”は、インターナショナル・レベルでは通用しない。金田が無理なら、ほかにチームの核になるプレーヤーを求めなくてはならない。
 二宮監督は、落合弘主将を“二宮全日本”の核にするつもりではないか、とぼくは見ていた。32歳の落合を頼りにすることに反対する人も多いだろうが、年齢はこのさい関係ないことにしよう。
 日ソ戦の第1戦で落合は、ソ連のセンターフォワードのキピアニをマークした。古田がスイーパーである。キピアニは1977年のソ連最優秀選手。このキピアニが中盤に下がるのに落合がつり出され、その裏側をソ連は速攻でついてきた。
 第2戦では、藤島がキピアニをマークし、スイーパーはやはり古田だった。落合は左のサイドバックにまわって、右ウイングのダラセリアをマークした。ダラセリアは、今回初めて代表チーム入りした若手である。
 こういう使い方をみると、落合をチームの軸にするつもりとも思えない。結局、チームづくりの意図を解しかねる。だからアジア大会の“二宮全日本”に、ぼくは、ほとんど期待をかけていない、というしだいである。


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