アーカイブス・ヘッダー

 

   

サッカーマガジン 1978年12月25日号

時評 サッカージャーナル

テレビのサッカー解説

なつかしいゴール絶叫
 アルゼンチンのワールドカップを思い返すと、夢まぼろしのようである。浦島太郎が、玉手箱の煙で頭もひげも、まっ白になってから竜宮城の生活を思い出したときの気持は、こんなふうだったんじゃないだろうか。
 「ゴォールゥゥー……」という向こうのテレビやラジオのアナウンサーの絶叫も、いまだに耳について離れない。アルゼンチンのワールドカップの楽しさを、あの絶叫が、いちばんよく表現していたように思う。
 アルゼンチン以外の国でも、ラジオやテレビのアナウンサーが同じように「ゴール」の絶叫を競演するのだろうか――『サッカー・マガジン別冊』(1978年秋季号)に、こう書いたら、日本サッカー狂会会員の後藤健生氏から、次のようなお便りをいただいた。
 ――ご参考までに私の見聞をお知らせします。やはり南米では各国とも「ゴォォ〜〜ル」をやっているようです。
 ――ことしの5月にボリビアのラパスで観戦したときには、隣の席の人のラジオで「ゴォ〜〜ル」とやっていましたから、ボリビアではアルゼンチンと同じように絶叫しているのは確実です……。
 そして最後に、こう付け加えてあった。
 「NHKの冷静な解説とも雑談ともつかない放送を聞いていると、あのゴォォ〜〜ル、アルヘンティーナ!の叫びが、なつかしくも、うらやましくもあります」
 まったくだ、とぼくも思う。
 誤解されないように書いておくが、NHKがワールドカップのテレビ中継を、あれほどやってくれたことには、心から感謝している。ただ、アルゼンチンで見たテレビとは違うのだ。画面は同じだけれども、音声が変わると、こうも感じが違うものかと思う。
 ぼくは、NHKの放映をビデオにとって全部見た。いま関東地域では、東京12チャンネルが毎日曜日に1試合ずつ放映している。それも見ているが、これもまた別種の味わいである。
 アルゼンチンのテレビには、格別の解脱があるわけではない。アナウンサーの描写も、ごく簡単である。極端にいえば、画面に合わせて、ボールが渡った先のプレーヤーの名前を、1人ずつ、いうだけである。
 「ガジェゴ……アルディレス……ベルトーニ……ケンペス、ルーケ、ケンペス」
 得点になったとき(あるいは、なりそうになったとき)だけ、爆発的にしゃべりまくる。そして、あの「ゴォォールゥゥー」の絶叫へと続くわけである。
 スペイン語がかいもくわからないぼくたちには、これはすこぶる都合がいい。コメントの大部分は、選手の名前だけだから、言葉なんかわからなくても関係ないわけだ。
 「バックの裏側をつくパスが出ないですねえ。だから速攻ができないんですねえ」
 こんなことをスペイン語でしゃべられたら、お手あげである。ルーケ、ケンペス、そしてゴール!こんなわかりやすい放送はない。
 逆に、日本へ帰ってきてからテレビを見て困ったのは、選手の名前がわからないことである。ご承知のように、外国のサッカーのテレビの画面は、ロングショットが多い。とくにアルゼンチンのテレビは、高いところから撮った画面が特徴だった。これだと、体の動きはよくわかるが、一人一人の選手は小さすぎて、だれがだれだか見分けがつかない。
  「ガジェゴ……アルディレス………ベルトー二」と1人ずついってもらったほうがありがたい。

個人名をいってほしい
 「日本には、スポーツをやるのは個人だという考え方がないんだろうな。だからテレビの中継でも選手の一人一人の名前をいわないんだよ」
 ある先輩が、こういう説明をしてくれた。
 「野球の中継だってそうだろ。大きな当たり、ライトバック、ライトバック、あ、ライトが捕りました、なんていってる。選手の名前はなかなかいわない」
 アメリカの放送は、そうじゃないんだそうだ。「グリフィーがバック、グリフィーがバック。右翼手のグリフィーが捕りました」と個人名を連呼するらしい。「そういうものかねえ」と、ぼくは半信半疑ながら感心した。
 サッカーは、考えようによっては、野球よりももっと個人的な特徴がものをいうスポーツである。
 野球では、右翼にあがったフライを捕るのは右翼手に決まっているし、その右翼手がシピンであっても、柳田であっても、淡口であっても、たいていの場合は、たいして問題じゃない。
 ところが、サッカーの場合は、中盤でパスを受けたプレーヤーがアルディレスであるか、ベルトーニであるかは、大きな違いだ。ドリブルのうまい選手もいるし、パスの得意な選手もいる。内側へ突進するのが好きな選手もいるし、外側へ展開することが多い選手もいる。ボールを受け取った選手の個性によって、それからの試合の進行は大いに変わってくる。
 サッカーは、そういう個性の組み合わせに面白さのあるスポーツである。だれからだれにパスが渡ったのか、小さな画面でわからないときには、アナウンサーは、やっぱり選手の名前を視聴者に教えてほしい。だれがプレーしているかわからないのに「速攻ができませんねえ」などと“解説とも雑談ともつかない”ことを聞かされると、確かに、あの「ゴォォールゥゥー」の叫びが“なつかしくも、うらやましくも”なる。
 「だけどねえ」とテレビ局で働いている友人がいった。
 「選手の名前をいっても日本の視聴者には、その選手の個性のイメージは浮かばないんじゃないかなあ。だからサッカーそのものを知ってもらおうと努力してるんだけどなあ」
 わかる、わかる。その苦心はわかるけど、やっぱり、サッカーは一人一人の個性からはじまることもテレビ解説で考えてほしいんだな。


前の記事へ戻る
アーカイブス目次へ

コピーライツ