きびしい環境の外国
ワールドカップで優勝したアルゼンチン代表チームの監督、セサル・ルイス・メノッティの書いた「メノッティ、1353日の闘い」が本誌に連載されはじめた。この本の原題は『いかにしてワールドカップを獲得したか』という意味らしい。翻訳には、ぼくが監修ということで、一応名前を連ねてはいるが、スペイン語は皆目、わからないので、世古俊文君が日本語にしたのを、事前に眺めさせてもらって、ちょっと文章を直すくらいのことしかできない。それでも、スペイン語の辞書を片手に原書のほうも眺めたりしている次第だ。
ことのついでに、お断りしておくと、この翻訳につけた見出しは、ぼくが勝手にこしらえたものである。原書では、一章ごとに「1974年10月12日」というように、日付がタイトルとしてついている。メノッティが監督を引き受けたあと、アルゼンチン代表チームにとって、節目になる出来事のあった日をとっているのだが、日本の読者にはあまり意味のない日付だから、別のタイトルをつけて、原文の中に入れることにした。ご了解をお願いしたい。
それはさておき――。
前にオランダのリヌス・ミケルスの『トータル・フットボール』を翻訳して本誌に連載したときにも感じたことだが、今度のメノッティの手記を読みながら「代表チームの監督についての考え方が、日本と外国では、ずいぶん違うな」とあらためて思っている。
たとえばメノッティは、代表チームの監督として、AFA(アルゼンチン・サッカー協会)と契約しながら、ワールドカップで優勝するチームを作るために、自分の雇い主である協会と戦い、さらに選手たちの所属しているクラブと戦い、また、ファンを代表する報道関係者と戦っている。ミケルスの場合も似たようなものである。こういう状況は、日本のサッカー界にはないものだから、はたして原文をそのまま日本語にして理解してもらえるものだろうか、と、ちょっと心配である。
日本サッカー協会は、オリンピック第一主義、強化第一主義である。したがって代表チーム強化の妨げになると考えたら、国内の日程や各単独チーム(クラブ)の都合は、(外国にくらべたら)かなり大胆にねじまげてしまう。
選手の所属しているチームも、日本代表チームのためには、すこぶる協力的である。代表のメンバーに指名された選手を出さないなんてことは、ほとんどない。メノッティの本の中に、リバープレートが、自分の所の選手を何人も代表選手に指名されてヘソを曲げる話が出てくるが、日本では逆に、自分のチームの選手がオリンピック代表に選ばれない、といってヘソを曲げた話が以前あった。
新聞が代表チームの監督の敵にまわるなんてことも、日本ではほとんど考えられない。ぼく個人としては実に残念なことだけれど、サッカーはジャーナリズムの間でそれほど興味を持たれていない。巨人の長島監督批判なら毎日のようにスポーツ新聞の1面に載っているが、二宮監督批判を書いたってデスクが紙くずカゴに放り込むのが落ちである。
そういうわけで、日本のサッカーの監督は、ぬるま湯につかっているようなものである。協会とは一心同体だし、クラブは協力的だし、新聞を通じて世論の袋だたきにあうこともない。
ぬるま湯のような日本
いま、日本代表チームの監督は二宮寛氏だが、強化の責任者は下村幸男氏なんだそうである。ぼくは、うかつにして最近まで、このことを知らなかった。日本代表チームについては、二宮監督が全責任を負うのだと思っていた。たしか2年前に、二宮監督が就任したときは、そういうことになっていて「ユース代表チームのほうも、できるだけ自分でも見たい」と抱負を語っていたと記憶している。
ところが、先日、協会の長沼専務理事と立ち話をしたら「シモさんが強化部の責任者だから」という言葉が出てきて「オヤ」と思った。
技術委員会の下に、強化部と指導部があって、技術委員長の岡野俊一郎氏が体協の仕事が忙しいことを理由に辞任したとき、後任には、指導部長の平木隆三氏があがった。これは担当記者を集めた席で正式に発表されている。ところが、同じころに強化部長の二宮寛氏は代表チームだけを担当することになって、日本リーグ総務主事で協会の理事である下村氏が強化の責任者になったのだそうだ。それで、夏のムルデカ大会には下村氏が、ヨーロッパ遠征には平木氏がお目付け役になって、ついていったわけがわかる。
こういう重要な人事を、協会は正式に発表しないで、とぼけていたらしい。ぼくだけが聞きもらしていたのかと思って、仲間の記者に確かめてみだが、みな知らなかった。
カンぐれば、これは二宮強化部長の格下げだから、当人の面目を傷つけないために隠しておいたのかもしれない。さらにカンぐれば二宮監督は、大企業の三菱の社員であり、三菱の協力で協会のために働いてもらっているかたちだから、格下げのようなことを新聞に書かれて、大三菱のきげんをそこねることを、おそれだのかもしれない。
これがヨーロッパや南米の国だったらどうか、と考えた。
協会が隠しても、新聞はウの目タカの目であばき立て、スポーツ面のトップに大ニュースとして書き立てるだろう。
選手をもっているクラブは、そんな責任体制のあいまいなサッカー協会に、選手を提供しようとはしないだろう。
メノッティやミケルスなら、協会が権限を縮小しようとするのに激しく抵抗し、世論に訴え、ダメなら「自分を解任しろ」と、がんばるだろう。
日本のように、おたがいにかばいあって“ぬるま湯”にひたっているよりも、メノッティやミケルスのようなプロのきびしさの中でもまれたほうが「男の仕事」にふさわしい、とぼくは考えた。 |