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サッカーマガジン 1978年10月10日号

時評 サッカージャーナル

燃える闘志は内側に

土を投げつけた少年
 夏の全日本少年サッカー大会のときに、ぼくの目の前で、こんなシーンがあった。
 ドリブルで突破しようとした少年を、相手のバックがタックルして、ひっくり返した。明らかに夕イミングの遅れたタックルで、トリッピングの反則だった。もちろん審判は、すぐ笛を吹いた。
 ひっくり返された少年は、よっぽど、くやしかったに違いない。起きあがるときに、土をつかんで起きあがり、その土を、ファウルをした相手の少年のほうに向かって投げつけた。
 相手の少年は、守りを固めるために、もうゴールのほうに走り去っていたから、土くれは、ただ空を切って落ちただけだった。投げたほうの少年も、別に、ぶつけてやろうと思ったわけではなかったに違いない。ただ、くやしさを、そういう形で表現しただけのことである。
 審判は、土くれを投げた少年を呼び止めて注意を与えた。「そんなことをしてはいけないよ」という程度のことだっただろう。おとなの試合だったら、黄色いカードを出して警告するところだ。
 これは、別に不愉快なシーンではなかった。せっかくいいドリブルをして、うまくフェイントをかけ、まさに抜き去ろうとしたときに反則で止められた少年のくやしさは、よくわかる。そのくやしさが、素直に態度に出たようすはむしろほほえましかった。審判の処置も適切だったと思う。
 「あれくらい、くやしがる子供じゃないと、いい選手にはなれないよな。むきになるところがないとスポーツは上達しないもの」
 「そうだね。どんなスポーツでも一流の選手は、カッと燃えあがるところがあるね」
 「だけど、おとなになっても、まだ、腹立ちまぎれに土を投げるようでは、一流の選手にはなれないよ。特にサッカーの選手はそうだな」
 本部席で見ている指導委員の人たちと、こんなことを話しながらぼくの頭の中には、ペレやヨハン・クライフのイメージがあった。
 最近のペレは、第一線を退いて如才のない人柄だけが表に出ているけれども、選手生活をしているときには、内側に隠した負けじ魂が、にじみ出るように、外側に表れることがあった。
 ぼくが初めて見たのは、1970年のメキシコ・ワールドカップのときで、グラウンドでのプレーは、すでに円熟の極みに達していたし、グラウンド外での、ぼくたちジャーナリストに対する応対も丁重で世慣れたものだった。しかし、それでも「衣の下によろいが見える」というか、心の中に激しい感情を押し包んでいることが、ありありと感じられた。
 イングランドとの試合で、ペレの絶好のシュートを、ゴールキーパーのバンクスが見事なセービングで防いだ有名な場面がある。あの場面のあとで、ペレはバンクスにかけ寄り、にっこり笑って肩を叩いた。「いやあ、よく防いだな」とでもいったのだろう。英雄は英雄を知る、といった感じだった。しかし、このとき、ペレの心の中には「畜生、やられた!」という気持もあったに違いない。ただペレくらいになれば、自分の感情をむき出しにして、地面を叩いてくやしがるような子供っぽいことはしない。相手のプレーを認めてやるだけの余裕を見せたのだろうと思う。
 クライフの場合は、鋭敏な感受性が顔つきに表れている。いかにもぴりぴりした感じである。しかし、そのとぎすまされた神経を内側に抑制して、冷静に判断し、チームをリードしたプレーぶりは1974年ワールドカップの記録映画によく示されていた。

本当のチャンピオン
 鋭敏な感受性と、それを抑制する強くしなやかな意思の力は、両方とも、すぐれたサッカーの選手に必要なものである。神経が鋭くなくてはいい選手になれないし、いつまでも、それがむき出しのままでは一流とはいえない。
 これは、選手だけでなく、指導者にもいえることである。
 アルゼンチンのワールドカップで3位になったブラジルのコウチーニョ監督は、記者会見で「ブラジルは、この大会の“モラル・ワールド・チャンピオン”だ」と語った。ブラジルは、この大会で一度も負けなかった唯一のチームだが、2次リーグでアルゼンチンと引き分け、得失点差で3位決定戦にまわらなければならなかった。アルゼンチンと引き分けた試合は、内容的にはブラジル優勢だったから、コウチーニョ監督が「モラル・チャンピオン」だというのは「実カナンバー1」というほどの意味だろう。
 アルゼンチンが優勝したあと、メノッティ監督に対して「ブラジルのコウチーニョ監督は、ブラジルが“モラル・ワールド・チャンピオン”だといっているが、どう思うか」という質問が出た。
 これに対するメノッティ監督の答は、実にあざやかだった。
 「コウチーニョ氏がモラル・チャンピオンシップをかちとったことに、お祝い申しあげたい。ところでアルゼンチンのかちとった“リアル・チャンピオンシップ”に対して、今度はコウチーニョ氏が祝辞を述べる番である」
 戦いは終わり、結果は明らかになった。しかし、3位に終わったコウチーニョ監督は、日本人なら負け惜しみと思われそうで、口に出すのを、いさぎよしとしないような言葉を口にする。執念深いという感じである。
 一方、優勝したメノッティ監督は、丁重かつ辛辣に、これに反撃する。闘志と負けじ魂は、ビロードの言葉に包まれてはいるが、ありありとしている。
 ところで、日本のスポーツではどうだろうか、と考えた。上のほうから強制されて「ファイト」「オッス」「ワッセ」と大声を出し、闘志を見せかける選手はたくさんいるが、内に燃えあがる闘志を自ら内に包み込んだ一流のスポーツマンは少ないのではないか。
 土を投げた少年がそのくやしさを忘れずに、それを乗り越えて一流の選手に育つことを祈りたい。


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