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サッカーマガジン 1978年1月25日号
時評 サッカージャーナル

77年の10大ニュース

時代の転換の年
 1977年をふり返って、日本のサッカー10大ニュースを選んでみた。
 こうやってみると、77年はなかなか出来事の多い年だったことがわかる。はなばなしい成果は少ないが、過去を締めくくり、将来への準備をした出来事が、いくつかあった。いわば、日本のサッカーの転換の年であった、といえるかもしれない。
 古河電工の奥寺選手が、日本のサッカー選手のプロ第1号になって西ドイツのケルンに行った。これは、もちろん将来への準備をした出来事の一つである。日本のサッカーは、プロフェッショナリズムを取り入れなければ、これ以上大きな飛躍をすることは無理だと思う。
 そのようなときに、奥寺がプロ入りに踏み切り、関係者が快く彼を送り出しだのは、時代の流れにそった英断だった。
 日本代表チームはワールドカップ予選で敗れ、それを機会に釜本邦茂選手が、ナショナル・チームからは身を引く決心をした。たまたま9月に東京の国立競技場でペレのサヨナラ・ゲームが全日本との間であり、釜本はここで日の丸を胸につけた最後の試合をし、ペレと並んでファンにお別れのあいさつをした。これが一つの時代を締めくくる出来事であったことは間違いない。
 このペレのサヨナラ・ゲームは国立競技場に6万1692人の大観衆を集めた。これは正真正銘の有料入場者数であって、近ごろ流行の招待券乱発でスタンドを埋めてみせるのとは、わけが違う。東京オリンピックを除く、日本のスポーツの観客動員新記録である。
 観客数の新記録に大きな貢献をしたのは、日本一の広告企業の電通だった。サッカーだけでなく、フィギュア・スケート、アイスホッケー、アメリカン・フットボールなどで、広告企業がスポーツ界に乗り出してきたのは、77年の大きな特色だった。
 日本サッカー協会は、78年5月下旬に外国チームを招いて国際カップ戦を開く計画をたてているが、これも電通の企画である。また79年には、日本で第2回コカ・コーラ・カップ争奪戦のワールド・ユース大会が開かれる予定だが、これは電通のライバルである、もう一つの広告大企業、博報堂の扱いになる。
 このような広告企業のスポーツ界への進出は、いいにせよ、悪いにせよ、将来の一つの方向を示すものだろうと思う。
 古河電工が1月1日の天皇杯と2月に閉幕した日本リーグの2冠をとったのは、鎌田新監督の成果という意味で、将来に希望を持たせるものだった。ただし、4月のサッカー・フェスティバルのときに行われたヤンマーとの、いわゆる“スーパーカップ”や5月のJSLカップを含めて3冠王、4冠王と呼ぶのには、ぼくは賛成できない。内容の薄いタイトルをたくさん作っても、それだけの価値はないからである。

長沼体制の真価は?
 77年は日本サッカー協会が、長沼専務理事のもとに新体制でスタートして2年目だった。長い間の宿題になっていて、なかなか手をつけられなかった問題が、ようやく解決に向かって動き出した。
 チームの登録制度を年齢別にしたのは、その中でも最大の改革だった。
 サッカーをするのに、大学生であっても労働者であっても、大きな会社の社員であっても、町の商店の従業員であっても、特別の区別をする必要はないはずだ。そこで、協会のチーム登録は、身分による区別をやめて、年齢による区別だけにした。つまり、それまでは、社会人、大学、少年団というように分けられていたのを、年齢制限なし、19歳未満、16歳未満、13歳未満というようにしたのである。これは将来への準備としては、非常に重要なステップだった。
 夏休みの全国少年サッカー大会は、この改革と関連づけられて、それまでの「少年団大会」を衣替えして新しいスタートを切った。この大会は協会の第四種(13歳未満)のチームための大会であって、中学生大会や高校大会のような「単一の学校チーム」だけの大会ではないところに意味がある。
 大学と社会人の組織も新たに衣替えして、それぞれ全国連盟が結成されたが、これには、ぼくは疑問を持っている。特に全国社会人サッカー連盟については「社会人」という呼称や組織や大会の趣旨が、あいまいだと思う。年齢別登録の趣旨に反するような動きが出てくるのではないかと心配である。    
 いずれにしても、改善はまだスタートしたばかりだから、今後どういうふうに持っていくかによって、長沼体制の真価が問われることになるだろう。
 最後に、中国との交流が本格的になったのも、77年の一つの出来事だった。3月に高校選抜チームが訪中し、7月には北京国際大会に日本選抜が参加した。
 中国はFIFA(国際サッカー連盟)に加盟していないが、AFC(アジア・サッカー連盟)には加入している。そのために、いま国際的なトラブルが起きていて、中国問題は、78年の世界サッカー界の大きなテーマになろうとしている。
 そういうときだけに、隣国の日本が、中国との交流を深めて、中国のサッカーを知ったことは、将来、大いに役に立つのではないかと思う。

1977年10大ニュース
@奥寺プロ入り、FCケルンへ
Aペレのサヨナラ試合に大観衆
B釜本が代表チームから退く
C日本がワールドカップ予選敗退
D日本代表ヨーロッパで合宿
E古河電工が2冠王
F高校選手権の首都圏開催成功
G協会の新登録制度スタート
H社会人、大学、少年の全国組織ができる
I中国との交流が本格化へ


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