アーカイブス・ヘッダー

 

   
サッカーマガジン 1976年10月25日号
時評 サッカージャーナル

サッカー協会の風通し

明るくなった事務室
 オリンピック取材のために、夏の盛りをモントリオールで過ごしていたので、しばらく日本サッカー協会の事務局にごぶさたしていた。風の音にかすかに秋の近いのを知るころになって久しぶりにのぞいてみたら、事務室の中がすっかり明るく、風通しがよくなっているのに驚かされた。
 そうなった理由は、しごく簡単である。光と風をさえぎっていた書類棚を取り除いただけである。
 5年前までは、サッカー協会の事務室のレイアウトは図のようになっていた。       
  部屋はA、B2つの高い書類棚で区切られていて、窓側の陽の当たる場所は、理事長、専務理事など協会のお偉方の席、書類棚のかげの薄暗い場所は、常勤の事務局職員とコーチの席になっていた。毎日出勤して働く人たちの場所をわざわざ棚で、陽のさしこまないように区切ってあったのだから、ばかげている。こういう状態は、この事務所ができて以来、7年間続いていた。
 5年前に、三菱の会社の重役だった沖朗氏が、協会改革のために事務局長に就任し、沖さんの手で書類棚のうちAが取り除かれた。それだけでも、協会の“働く人たち”の部分は、かなり明るくなった。ぼくは、そのことを「小さな改革」という題で、71年12月号のサッカーマガジン誌上に紹介している。
 今回はさらにBの書類棚も片づけられた。それで協会の事務室の中は、全体が見違えるように明るく近代的になった。これは新しく長沼健さん(前日本代表チーム監督)が専務理事に就任して行った「小さな改革」の一つ、というわけである。
 もちろん、2つの書類棚の位置は、日本のサッカー界全体にはほとんどなんの関係もない。しかし、この協会事務室のレイアウトが、日本のサッカー全体を取り仕切る立ち場にある協会実力者の個人的な好みを反映しているところが興味深い。
 最初に2つの仕切り戸棚で部屋を明暗2つに区切ったのは、当時の協会の実力者だった小野卓爾氏である。風通しの悪さに多くの人が、かげでブツブツいっていたのに、小野さんは、このレイアウトを、がんとして変えようとはしなかった。
 反小野さん派のグループが、沖さんを“大物事務局長”として送り込んで、ようやく半分だけ明るくなったが、それだけだった。
 さらに5年かかって、今年の3月に小野さんが退陣し、長沼専務理事ら若手が協会を動かすようになって、ようやく戸棚は2つとも取り除かれた。「小さな改革」が完成するのに、ずいぶんと年月を必要としたものである。

理事会も記者に公開
 事務室の風通しだけでなく、協会運営の風通しも、最近しだいに良くなってきたようだ。
 たとえば、日本サッカー協会の理事会が、サッカー担当の報道陣に今年から初めて公開されるようになった。
 日本体育協会や陸連、水連などの理事会は、前から公開されていて熱心な担当記者は欠かさず傍聴している。その場ですぐニュースにならなくても、動きの背景を知っておくことによって、正しいニュースの伝え方ができるようになるからである。
 サッカー協会理事会の公開も、ぼくたちは長い間、要求し続けてきたのだが、どういうわけか実現しなかった。
 秘密会でこそこそやっていると、戸棚で大衆の目をさえぎっておいて、自分勝手に日本のサッカーを動かそうと企んでいるのではないか、と疑わしくなってくる。
 これからはサッカーの理事会も公開になったから、ぼくたちは協会の動きを勉強できるし、協会のほうも、あらぬ疑惑を招かないですむわけだ。
 さらに長沼専務理事の発案で、協会の役員とサッカー担当記者との懇談会を毎月1回、定期的に開くことになった。
 かた苦しい会議ではなく、また食事の出るような宴会でもなく、ジュース一杯くらいで、おたがいに意見を述べ合おうというわけである。
 専務理事だけでなく、そのときどきで、話題の仕事を担当している役員、時間のあいている役員にも出てもらって考え方や計画を聞く。理事会と違って公式の会ではないから、個人的な意見も交換できるわけである。
 一方、長沼専務理事は、就任以来ひまを見つけては各地をまわり、地域のサッカー協会の人たちと話し合いを続けているそうだ。
 こういうように、ときには組織の中の壁を取り払い、情報の風通しをよくすることによって、日本のサッカーは明るくなる。それは事務局の中の壁を取り払ったことと無関係ではない。


前の記事へ戻る
アーカイブス目次へ

コピーライツ