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サッカーマガジン 1975年5月号
牛木記者のフリーキック

●きびしい守備を破るには
 「全日本はちょっとひどすぎるな。もっと激しく動かなきゃいかんよ」
 日本−スウェーデンの3試合のあと、いろんな人にこういわれた。
 「問題は動きの量だけじゃないと思うな」
 とぼくは答える。
 スウェーデンは、中盤から激しい“プレス・ディフェンス”を仕掛けてきた。背が高く、足の長い連中が、ぴったり身体を寄せてマークしてくる。日本の若い選手はそれですっかり、すくんでしまった。
 こういう接近マークの守備を破るにはどうすればいいだろうか。
 スウェーデンのプレス・ディフェンスを見て、ぼくは1970年のメキシコ・ワールドカップで見たブラジル対イングランドの試合を思い出した。
 あの試合の立ち上がりに、イングランドは積極的に中盤でチャレンジして、ブラジル選手のボールを奪おうとした。ところがブラジルのジャイルジーニョやリベリーノは(ああ!なんと素晴らしい技術と速さを持っていたことか!)接近しているイングランドのプレーヤーを、ボールへのワンタッチで、たちまち10メートルくらい置き去りにしてしまった。だから、そのあとのイングランドは、中盤ではある程度相手を離して、早目に下がって守るようになった。
 そういうシーンが記憶にあるものだから、スウェーデンのオービー・エリクソン監督が「きびしい接近マークこそ現代のサッカーだ」というのをきいて、次のような質問をしたくなった。
 「ブラジルのようなチーム相手でも、同じようにやりますか。ワンタッチで置き去りにされるんじゃないですか」
 「もちろん、抜かれる可能性はある」とオービー・エリクソンは答えた。「だが、そのときにはスイーパーがいる」
 しかし「中盤で1人抜かれたら、ゴール前ではスイーパーによる数的優位は、なくなっちゃうじゃないか」とぼくは思う。スウェーデンのプレス・ディフェンスに手も足も出ないのは、日本の選手に、ジャイルジーニョやリベリーノのような技術と速さがないからではないか。
 これにはちょっと注釈がいる。 
 1対1で抜くといっても、相手にくっつかれっ放しでは、そう思うようにはならない。だから、相手から離れようとする動きが、まず必要である。
 また、味方の他のプレーヤーがダイレクト・パスを受けることが出来るように動いてくれなければならない。
 パスするか、抜くか、その選択権を握ることによって、攻める方が圧倒的に有利になり、1対1に勝つ可能性が生まれる。
 したがって、いずれにせよ“動く”ことは必要である。しかし、それは「アイデアのある動き」であって、単純な労働量ではない。
 また、その前に、1対1で勝てるプレーヤーがぜひ必要であることは明らかだと思う。

●体協理事岡野俊一郎の誕生
 「サッカーマガジン」の執筆者として、またテレビ解説者として、おなじみの岡野俊一郎氏が、日本体育協会の理事に選ばれた。43歳。
 昭和生まれの体協理事誕生というので、ジャーナリズムでも特に話題になった。
 「体協理事ってなーに」という読者の方もおられるだろうし、現に「岡野さんが体協理事になると、何かサッカーのためにトクになるんですか」と、ぼくに質問した人もいた。
 まことに、ごもっともな質問で、体育協会の役員選考と日本のサッカーの振興に直接の関係はない。体協人事は、大衆に無縁な“コップの中の嵐”だといわれれば、それまでだ。
 しかし、国際的視野を持ち、世界のスポーツであるサッカーをよく知っていて、比較的若く実行力のある人材を、日本体育協会に送り込んだことは、サッカーだけでなく、日本のスポーツ界全体のために必ず役立つだろうと思う。というのは、日本のアマチュア・スポーツの総本山を自任している日本体育協会は、国際的には通用しない、偏狭で、ご都合主義のアマチュアリズムにとらわれているからである。これが日本のスポーツの振興を非常に妨げている。世界のスポーツを知っている若い頭脳の登場は、日本のスポーツ界の体質改善のきっかけになるに違いない。
 ところで、競技団体を代表する体協理事になるためには、まず各競技団体から1人ずつ出る体協評議員にならなければならない。したがって岡野さんが体協理事になるためには、日本サッカー協会が、サッカー代表の評議員に、岡野さんを指名しなければならなかった。
 サッカー協会には、もっと年輩の実力者で、体協にも古くから関係している役員もいる。そういう方たちが、後進に道を讓って岡野さんを評議員に指名したのは、各種の事情があったにせよ、サッカー協会の大英断だったと、ぼくは評価している。
 さて、競技団体代表の評議員は39人いて、そのうち9人だけが理事に互選される。実際には投票をしないで話し合いで9人を選び、サッカー代表の岡野さんが、その中に入ったわけである。これは体協の古くからの加盟団体であるサッカー協会の“のれん”のおかげと、岡野さん自身の若さおよび知名度によるものだったろう。
 そこで、岡野体協理事に注文が一つある。それは少し時間的余裕を作ることである。サッカー協会の事務的な仕事は、有能な協力者を得て任せるようにして欲しい。体協理事は、単なるサッカーの利益代表ではなく、多くの人の話をきき、相違点よりも共通点を求め大所高所から日本のスポーツをリードする立場である。そういうことは、雑務に追われていては、むずかしいだろうと思う。

●ペットマークの再募集
 日本サッカーリーグで、リーグのペットマークを改めて公募している。昨シーズンも募集したが、いい作品がなく、とりあえず、審査員の横山隆一氏に描いてもらったものを使うことになっていた。当時の公募のやり方については、前にこの「フリーキック」のぺージで異議を唱えたことがあるが、ともあれ再募集するのは結構だ。
 そこで、この機会にペットマークとはどういうものかを、紹介しておこう。
 日本でペットマークなるものが知られるようになったのは、1966年にイギリスで開かれたサッカーのワールドカップ以後だと思う。あのときに初めて“ウィリー”というペットが日本に紹介された。
 ウィリーは、イギリスの国旗ユニオンジャックを着たライオンの人形である。単に絵に描いたマークではなく、いろいろな動作や表情をデザイン出来るし、人形や縫いぐるみにして実際に動かすことも出来る。そういうペットを創造して、大会のシンボルにし、宣伝の媒体にしたのが、ユニークだった。
 次の1970年メキシコ・ワールドカップでは、ウィリーを真似て“ホワニート”を作った。これはソンブレロをかぶり、おヘソをまる出しにしたメキシコ人の少年である。動物でなくて、個性的な少年にしたのがアイデアで、なかなか、かわいらしかった。
 ところが、どこの国にも野暮天がいるもので「おヘソを出した鼻たれ小僧をシンボルに使うのは国辱だ」と文句をいう人が出てきた。そこでやむなく、メキシコの国旗の中にいる鷲(ワシ)をデフォルメして、ペットマークをもう一つ作った。これには“ピコ”と名をつけたが、人間的なユーモアのあるホワニートにくらべて、ピコにはなんだか官僚的な冷たさがあった。実在の動物をリアリスティックに使うと、どうも表情が乏しくなるようだ。
 1972年のミュンヘン・オリンピックでは、ミュンヘン地方原産の犬であるダックスフントを使った。これもピコと同じで、表情に乏しい欠点があった。
 1974年の西ドイツ・ワールドカップは「チップとタップ」。これは丸顔のチビと長顔のノッポの2人のサッカー選手の組み合わせである。ユーモラスで、しかも対照的な個性をコンビで使ったのが秀逸だった。
 2人だから表情や動作に、いろいろと組み合わせの妙があり、変化があった。そこが新しいアイデアである。
 ペットマークを公募するのは、このような新しいアイデアを大衆の中に求めようという趣旨である。単なるデザインを募集するのではないから、あらかじめ応募者に注文をつけてワクにはめない方がいい。
 応募する方も、絵はヘタでも、自由奔放にユニークなアイデアを出してほしいと思う。


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