●バイエルン・ミュンヘンとTV
ヨーロッパーカップに優勝した西ドイツの強豪“バイエルン・ミュンヘン”が、1月に日本に来る。これまでに、ヨーロッパや南米から、多くのプロのサッカー・チームが日本に来て、そのたびにぼくたちは「名門」とか「強豪」とかの形容詞を使っていた。しかし、今度のバイエルン・ミュンヘン以上に豪華な顔ぶれをそろえたチームを日本に招くことは、過去にも将来にも、ないんじゃないかと思う。
6月のワールドカップに優勝した西ドイツの代表選手が6人もいる。ベッケンパウアーがいる。ミュラーがいる。そしてチームは、現在のヨーロッパ・チャンピオンであり、西ドイツのリーグチャンピオンである。
「それで頭が痛いんです」
と、あるテレビ局のディレクターが、いっていた。この2度とチャンスは来そうにない豪華チームの試合のテレビ中継権が、東京の各局で激しい奪い合いになっているのだという。「やらせてもらえなかったら、これですよ」と、そのディレクターは切腹の真似をしてみせた。
東京にはNHKのほかに、民放のテレビ局が5局ある。東京での試合を地方の民間テレビが放映するときは、この5局のどこかから番組がネットされるわけである。
NHKと、この民放5局が全部、日本サッカー協会に対して、バイエルン・ミュンヘンと全日本との試合中継を申し出ているんだそうだ。
それぞれの局には、それぞれの言い分がある。NHKは全国にネットを張りめぐらせているから、「うちで放映すれば、全国民が見られる」と主張する。ある民間局は、ちょうどバイエルン・ミュンヘンの来日と同じ時期に全国高校サッカーを放映している。「毎年莫大なお金を使ってサッカー協会に協力しているのに、同じ時期に同じ協会が競合するような形で他局にテレビ放映を許すようでは、踏んだりけったりだ。それくらいなら、バイエルン・ミュンヘンも、こちらで、やらせて欲しい」と考える。
また、ある局はワールドカップの試合を毎週レギュラー番組で放映している功績を主張し、またある局は、ペレのFCサントスが来たときに、異例の高額の放映権料を払った実績を持ち出す。そして結局は、権利金の額の問題であり、1試合1千万円以上というウワサも流れている。
ファンの気持ちとしては、どの局にも、将来ともみんなサッカーのために協力してもらいたいところだ。協会がいい気になってギャラをつり上げ、気がついてみたらどの局からもソッポを向かれるようなことが、将来起きないように円満な解決を願いたい。
「おごる平家は久しからず」ということがある。
ボクシングやボウリングの中継をめぐって、すでにそういう前例がいくつかあることを、お忘れなく。
●新聞のサッカー記事の扱い
「新聞のサッカーの記事の扱いが小さくなったねえ」
とよく文句をいわれる。
「人気がないんだから仕方がないさ」
というのが、ぼくの答えである。
「そんなことはないよ。うちの近所じゃ。チビッ子サッカーのチームは増える一方で、人気がないどころじゃないよ。高校サッカーのチーム数だって、ここ数年急上昇で、今年は2676校。来年は甲子園の高校野球予選参加校を抜くことは確実だといわれているんだ。それだのに、甲子園の高校野球はバカバカしいくらい大きく新聞にのって、サッカーはほんのちょっぴりじゃないか」
いいぶんは、もっともで、サッカーの競技人口の伸びは、ぼくたちも認めているのだが、新聞社のデスクの立ち場からいうと、日本のサッカーは、大衆的反響という点で、かなりもの足りない。新聞社のデスクが敏感に反応するのは、読者の声だが、野球や相撲にくらべると、サッカー・ファンの読者の声はまだまだ少ないのである。
「たとえばだな」
とぼくは友人に説明した。
「昨年の石油ショックのあとで、新聞用紙不足で新聞がページ数を減らしたことがある。そのためにスポーツの記録も簡略にして紙面を倹約しなければならなくなった。ところがだ――」
「ところが、どうしたんだ」
「相撲の千秋楽の星取表の大きさを小さくしたら、たちまち熱心な読者からお叱りをいただいた。電話もきたし、葉書もきた。永年の読者だけど、もうお前のところの新聞はとらないなどというのもあった」
「そりゃ、相撲には年寄りのマニアがいるからな。サッカーファンは若い人が多いから新聞に文句いったりはしないだろう」
「だけど、反響がなけりゃあ、こっちとしては、どうしようもないだろ。新聞の用紙事情が良くなって紙面に余裕が出てきたとき、相撲の星取表は、まっさきに以前の大きさに復活したけど、サッカーなんかは縮小されたままに終わったわけさ」
スポーツ記事の大きさを決めるのは、結局のところ、読者の関心度である。それも、観客数とか、投書の数という形で表面に出てこなければつかみようがない。
「それを、サッカー担当記者の不熱心のせいのようにいわれては。こっちも困るんだな」
と、ぼくは最近では開き直ることにしている。
●“中学校大会”の弊害
本誌先月号の「フットボール断想」の中で、秋庭亮氏が“中学生には技か力か”という記事を書いておられた。その前の号の10月号に載った全国中学生大会の総評に対する批判である。
ぼくは、この総評を読み落としていたので改めて10月号を引っぱり出して読んでみたのだが、ぼくも秋庭氏と同意見だ。どう見てもあの総評は、12〜15歳の中学生に、「技より力」のサッカーを奨励しているとしか思えない。
「“走れ、けれ、当たれ”でゆくキック・アンド・ラッシュでのサッカーが、中学生サッカーの道しるべである」――というような考え方は間違っているとぼくも思う。
秋庭氏は、この総評の署名が(大会実行委員会技術指導部)となっているところから、これを日本サッカー協会の公式見解として受け取ったようだ。そう取られても仕方がないところだが、ぼくは実際には、あれは協会の公式見解でも、大会技術委員会技術指導部なるものの統一見解でもないと思う。あの総評は個人の意見として個人の署名で書かれるべき内容である。それを「委員会」の名で発表したところに第一の問題がある。個人名で発表するのであれば、どのような意見でも、将来のための建設的討論の材料として歓迎されただろう。
ぼくは、あの総評にあらわれている思想の中に“中学校大会”の弊害を感じた。現在、この大会の名称は“全国中学生大会”となっているが、出場チームは“単一の中学校チーム”となっており、学校対抗である。こういう“学校対抗”の大会に勝つためには「走れ、けれ、当たれのサッカー」が手っとり早いという考え方があるのではないだろうか。
一つの中学校には、サッカーの上手な少年たちばかりが集まるとは限らない。そういう粒のそろわない選手を育てて、3年間(実質的には2年余り)の間にチームを作り上げ、しかも短期間のトーナメントに勝つためには、力づくのサッカーを目ざしたほうが早いということになるのではないだろうか。
しかし、学校体育であれ社会体育であれ、少年たちのスポーツはそれ自体が一つの“教育″である。教育は、その少年たちの将来に役立つものでなければならない。少年たちの未来にとって、中学生の年代では「力より技」が大切だと、ぼくは思う。
ただし、中学校大会に優勝した古河一中のサッカーが、単なるキック・アンド・ラッシュであるという見方にも、異論はある。あの大会で活躍したチームが、少年サッカーの盛んな地方から出ていることの方に、むしろ注目したいとぼくは考えている。
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