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サッカーマガジン 1974年5月号
牛木記者のフリーキック

●代表チームにもの申す
 「日本のサッカーは弱くなったねえ」
 「ブラジルやヨーロッパのプロが来たときに1点差の試合をして善戦だなんていってたのは、ありゃ相手が手加減をしてくれてたんだな」
 朝鮮民主主義人民共和国から来日した「ピョンヤン(平壌)4.25クラブ」に、日本代表チームが4対0の完敗を喫したのを見て、いろんな人から、こんなことをいわれた。こっちはサッカー気違いのはしくれだから、なんだか冷笑と同情の入りまじった批評をされたような気がして肩身がせまい。
 「4.25はクラブ・チームといったって、顔ぶれはナショナル・チーム級なんだよ。それに、こっちはベスト・メンバーから7人も抜けていたんだし――」
 ちょっと反論を試みてみるものの、われながら言い訳がましい。
 たしかに3月10日に国立競技場で試合をしたわが日本代表チームは、ベスト・メンバーではなかった。
 GK横山、中盤の森、FWの釜本が昨年末以来の負傷で出場できなかったし、三菱の若手の高田、足利は二宮監督といっしょにドイツ留学中、日立の山口と古河の荒井も故障でこの日使えなかった。
 しかし「4.25」も、ナショナル・チームに近い顔ぶれとはいえ朝鮮民主主義人民共和国代表チームではない。こっちに故障者が多かったことは言い訳の材料にはならないだろう。
 技術的にも、戦術的にも、向こうが一段上であったことは認めなければならないのだが、テレビを見て、日本代表チームの弱いのにあきれた一般の人たちは、たいてい「どうも日本選手は精神力が足りないね」といっていた。
 「近ごろの若い者は、気力がなくて…」というのは、コーチ陣にとっては、安易な言い訳に違いない。しかし、気力充実した選手たちをフィールドに送り出せなかったのだとしたら、それは監督、コーチの責任である。
 今度の場合は、日本蹴球協会も日本代表チームも、どれほど真剣な気持で日朝交歓サッカーに取り組んでいるのか、と疑問を持たざるをえない事例が多かった。神戸での試合で20歳未満のユースを「4.25」にぶつけて、まるで試合にならなかったのも、その一例である。
 日本代表チームは、はたして勝つために最善の準備をし、最善の作戦をたてて3月10日の試合に臨んだだろうか。ただ漫然と「若い選手に経験を積ませればいい」という気持だったのではないだろうか。
 「日本代表」の名を冠し、日の丸を胸につけてグラウンドに出る以上、親善試合であっても、タイトルマッチと同じ気持であって欲しい。真剣さを欠いた“経験”は本当の“経験”にはならない。

●「日本サッカー協会の新役員」
 先月号に「日本蹴球協会の解散」について書いたが、その中に誤りがあったので訂正させていただきたい。新しい財団法人日本サッカー協会の理事23人が決まった中に、旧日本蹴球協会の竹腰重丸理事長も入っているように書いたが、竹腰氏は理事を辞退されたのだそうである。したがって、財団法人の理事は、23人まで選ぶことができるところ1人欠けて22人である。また従来理事の中で、新しい理事から脱けたのは、早慶のOB2人だけと書いたが、ほかに関西に住んでおられる旧常務理事で、新理事になられなかった方もいる。これは代わりに地域理事が入っているから、脱けた中に勘定しなかったのである。
 新理事にならなかった竹腰重丸氏は、昭和のはじめから、ずっと日本のサッカーの技術的発展の中心だった。キッキング・ゲームだった初期のサッカーに、ショートパスを取り入れたのも、1936年のベルリン・オリンピックにコーチとして行って、現地で3FBシステムを見て取り入れ、スウェーデンを破ったのも、主として竹腰氏の功績だったそうだ。戦後は日本体育協会の理事として、オリンピックやアジア大会のたびに、サッカーの選手団の数が削られそうになるのに抵抗してがんばっていた。本当にサッカー一筋の人だった。
 その竹腰氏が、「そろそろ第一線を退きたい」といっておられたのは一昨年来のことで、昨年の年賀状にも、そういう趣旨のことが書いてあった。しかし、竹腰氏が「もう、後進に道を譲ろう」といったのは、自分自身のことだけをいったのではない。日本蹴球協会の野津謙会長や協会の実力者である小野卓爾常務理事に対して「私も辞めるから、あなた方も若い人と代わりなさい」というつもりだったのである。
 結果は、竹腰氏だけがやめて、改革派(主として関西系とみられている)の目標だった小野卓爾氏らは残ることになった。改革派の人たちは「長い間苦労したけれど完敗だった」といっているらしい。
 さて22人の新理事会は、近く理事会を開いて、新会長、新専務理事を選ぶことになっている。この号が発売されるころには、新役員の顔ぶれが新聞に発表されているかも知れない。
 新しい役員が誕生しても。従来通りのやり方が踏襲されるようでは、日本のサッカーは、けっして、これ以上盛んにはならないし、強くもならないだろうと思う。日暮れて道遠しの感がある。

●『日本サッカーのあゆみ』
 日本蹴球協会が創立50年の記念事業の一つとして編集していた 『日本サッカーのあゆみ』がやっとでき上がった(講談社版、定価3,800円)。254ページ、クロス装、箱入りの立派な本である。数年前に水泳連盟でも立派な日本水泳史の本を出したことがあるが、今回のサッカー史は商業出版社を通じて発行されたから、一般の人でも町の書店を通じて注文することができる。サッカーは大衆のスポーツなんだから、一部の協会関係者だけが愛蔵して悦にいっているようでは話にならない。日本のサッカー史が、ちゃんとした本になったのは、これが初めて。サッカー愛好家はぜひ書店を通じて購入されるよう、お勧めする。
 日本のサッカーを統轄する組織として日本蹴球協会が設立されたのは1912年。創立50年のお祝いをしたのは、3年前の1971年(昭和46年)だった。日本のサッカー史を編集する計画はその数年前からあって協会でサッカー史編集委員会のメンバーを決めたりしたのだが、結局、この委員会は名前だけで実際には、まったく動かなかった。
 3年遅れて、ようやくこの本がまとまったのは、ひとえに日本蹴球協会創立当時の功労者のひとりである新田純興氏(前日本蹴球協会常務理事)の超人的努力のおかげである。新田さんは、ひとりでこつこつと資料を集め、昔の人の話をきき、写真を探し、原稿を書いていた。新田さんの犠牲的な奉仕がなかったら「協会の歴史を発行する」という協会の公約は実現しなかったに違いない。
 実をいうと、新田さんが自分ひとりで協会のサッカー史をまとめているのを見て、ぼくは内心不満だった。協会の歴史は、協会の組織をあげて、多くの人の協力を求めて編集するのが本当である。新田さんひとりで編集すれば、新田さんの趣味と考え方に偏って、バランスのとれた歴史はまとまらないのではないかと心配していた。
 本ができあがってみて、ぼくの持っていた内心の不満は間違いたったと反省している。結局、一つの本をまとめるという仕事は、だれかひとりの個人的努力がなければできないことである。多くの人を集めて、わいわいがやがややっても、けっしていい仕事にはならなかっただろうと思う。『日本サッカーのあゆみ』には、たしかに新田さんの個性がにじみ出ているが、個性のない歴史の本なんて、魅力のない本に違いない。


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