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サッカーマガジン 1974年1月号
牛木記者のフリーキック

●1974年の初夢
 新年号だから、おめでたいことを書きたいが、どうも、にぎにぎしい材料がない。1974年は、多難な年なんじゃないかという気がする。
 ともあれ、ワールドカップの年である。6月には、ぜひとも西ドイツへ行きたいものだと画策している。ないしょ話をいうと、日本チームが出場しないのは、かえって好都会である。日本が出ていると、やはり日本チームの試合を取材しなければならないから、他の好試合を見落とすことになる。日本が出ていなければ、面白そうな試合をつまみ食いして見ることが出来る。
 9月にはテヘランでアジア競技大会がある。中国の加盟で、いろいろもめているけれども、大会が開かれることは、間違いないだろうと、ぼくは思っている。ただし、中国がサッカー競技に参加するのは、いまのところ、むつかしそうだ。
 アジア大会では、地元のイランについで、日本が銀メダルを取れたら上出来だと思うが、それも現状ではたいした希望は持てない。次の年にモントリオール・オリンピックの予選があるから、そのための日本代表チームの骨組みだけでも、テヘラン大会までにできればと夢みている。
 日本の国内では、サッカーの試合ももっとお客さんが入るようになってもらいたい。日本リーグの試合で、西が丘サッカー場を超満員にするくらいじゃないといけない。
 5、6年前に、日本リーグ関係者たちが「試合内容の充実が先だ」と話していたことがあった。もちろん、いい試合をしてもらわなければ困るけれども、いい試合をしさえすれば、お客さんに来てもらえると思ったら大間違いである。
 逆に競技場が超満員になってわんわんいうようなふんい気になれば、試合の方が良くなってくるものである。
 新聞が扱ってくれないから、お客が来ないと不満をいう役員がいる。これも考え方が逆立ちしている。新聞にのせてもらうようなPRする必要はあるが、人気のないものを新聞が大きく扱うわけにはいかない。
 日本リーグの幹部は、外国のリーグの入場券は、どのようにして売られているか、入場料収入の配分はどうなっているかを、十分研究してもらいたい。外国のリーグの形だけを真似て、組織と運営は日本独自のやり方をしているところに基本的な間違いがあると、ぼくは思う。
 初夢を書こうと思ったのに、また話が理屈っぽくなった。元日には、景気よく初げり会をやって、げん直しをしよう。

●国内国際サッカー3賞
 1973年度の日本リーグのベスト・イレブンや新人王が、スポーツ新聞で選ばれている。全日本選手権が終わったら、記者投票による最優秀選手の選考もはじまるだろう。そういうマジメな表彰とは趣きを変えて、記者仲間で、ちょっと角度を変えた“賞”を選考してみた。誌上表彰だけで別にトロフィーは差し上げない。悪気のない冗談のつもりだから、差し障りの向きも、お許し願いたい。
 「相撲のような殊勲、敢闘、技能の3賞を選んでみようや」
 「殊勲は杉山だな。三菱の優勝は彼のおかげだよ」
 「でも大部分の試合で後半だけしか出なかった。半闘賞ではないか」
 「杉山は技能賞が本当だと思うね。殊勲賞は釜本じゃない? PKを失敗して相手チームに貢献した」
 「技能賞ならセルジオ越後もいるよ。殊勲杉山、技能越後、敢闘賞は新日鉄の富沢でどうだ」
 「最優秀監督賞を藤和の下村にやろうじゃないか。越後が入ったとはいえ、あの顔ぶれで、よく上位に持っていったもんだ」
 「三菱の二宮監督にもやりたいけど、あれだけの駒を持ちながら、前年は日立に2冠をとられているので割引きせざるをえんね」
 「しかし二宮監督は努力賞だよ。三菱の社内を動かし、毎年のように西ドイツへ行き、チーム内のうるさい連中をなんとかまとめたんだもの」
 「ついでながら国際サッカーの殊勲賞はポーランドだね。ワールドカップ予選でイングランドをやっつけた」
 「そりゃ、間違いない。敢闘賞はおとなりの韓国にやろう。セミ・プロのオーストラリアと2度も引き分けて、プレー・オフに持ち込んだのは、結局敗れたとはいえ、たいしたものだ」
 「そうすると技能賞はチリだな。軍事クーデターの最中に国を脱出してモスクワに行きワールドカップ予戦の第1戦をやった。第2戦はソ連の試合放棄で、労せずして、西ドイツ行きの切符を手に入れた」
 「じゃ、わが日本代表チームには?」
 「残念ながら、賞がないで賞」

●大学リーグ解体論
 日本サッカーリーグも、来シーズンで10年目を迎えようとしている。日本リーグを作ることを勧めたのは、東京オリンピックの前に来日して、日本のサッカーを建て直したデットマール・クラーマーさんだったが、クラーマーさんのアイデアでは、大学チームも日本リーグに入れるつもりだった。
 当時、実業団で強かったのは、古河電工、日立本社、三菱重工、東洋工業、新日鉄などで、大学の一流どころ、中大、早大、慶大、立大、関学などと、ほぼ同じくらいの実力だった。
 「日本の選手は、いい試合をする機会が少ない。強いチームが、実業団と大学に分かれていて、年に1、2回のトーナメントをやってるんじゃだめだ。強いチーム同士のリーグをやらなきゃいけない」
 というのが、クラーマーさんの主張だった。
 「そんなことをいったって、日本には古い大学リーグの伝統があるから無理なんだ」
 とぼくがいったら、
 「ドイツのサッカーの歴史は、もっと古い。ドイツでさえ、これまでの地域リーグの上に全国リーグを作ろうとしているんだ。日本のサッカーの伝統が、ドイツ以上だとは思えない」
 と反論されて、ぎゃふんとなったのを覚えている。
 いまになってみれば、クラーマーさんの主張は、まったく正しかったと思う。
 大学リーグを解体し各大学のチームは、しベルに応じて、日本リーグ、関東リーグ、東京リーグなどに、それぞれ加わるべきだったのだ。
 そうでなくてさえ、日本のサッカーに、いいタレントの数は少ないのに、それを大学と社会人に分けて使っているのは、大きなマイナスである。
 大学チームが日本リーグに入った場合、不利なことはわかっている。
 大学では、ふつう1人の選手を4年しか使えないのに、社会人のチームでは7年でも8年でも使えるからである。
 しかし、それでも大学チームを日本リーグに入れるべきである。なんだったら、かつて全日本選手権に出ていた早大WMWや慶応BRBのようなクラブにして、卒業したOBも引き続いて出られるようにしてはどうか。
 関東大学リーグが公式にはじまったのは1924年(大正13年)。創部50年目の法大の初優勝が、リーグの50年も飾った。過去半世紀にわたる大学サッカーの功績は功績として、時代遅れの伝統には、もうサヨナラをするときが来たのではないだろうか。


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