●イングランドの敗れた日
10月の17日に、ぼくはロンドンにいた。8月下旬からの海外出張の期限は、2日前に切れていたけれども、ウェンブレー競技場のイングランド対ポーランドを見るために滞在を延ばしたのである。
この試合を目前にして、日本に帰ったりしたら、サッカー・マガジンの全読者のもの笑いのタネになりかねない。1973年の世界のサッカー界で、もっとも重要な、もっとも注目された試合がこれだった。サッカーの母国イングランドが、来年6月に西ドイツで開かれるワールドカップ本大会に出場できるかどうかが、この試合にかかっていた。
結果はご承知の通り、1−1の引き分けで、ホームでの第1戦に勝っているポーランドがファイナルヘ進出した。イングランドにとっては、1950年のワールドカップに初参加して以来、はじめての予選失格であり、1953年に同じウェンブレーで、ハンガリーに史上初のホームでの敗戦を喫して以来のショックだった。
試合のくわしい内容や論評は、ロンドン在住の大和国男氏やエリック・バッティ氏らから届くと思うから、ここでは簡単に、ぼくの印象を並べておきたい。
ひとことでいえば「力のサッカーの限界」ということではないかと、ぼくは思う。
イングランドは、九分通りボールを支配し、押しに押していた。ポーランドは、ほとんど10人が、ときには11人が自軍のぺナルティエリアにいて守りに守った。イングランドのシュートは雨あられだった。ポーランドのゴールキーパー、トマシェフスキーの鬼神のような(本当に神がかりだった)奮戦があったとはいえ、あれでPKの1点しか入らなかったのは「サッカー100年の不思議」だと、あるイギリスの新聞が書いていた。
しかし、イングランドが勝てなかったのを「不運」だったといって片づけることはできないと思う。ここ数年来、イングランドのサッカー(代表チームだけでなく、国内のリーグでも)が見せていた力づく、体格づくのサッカーの限界を、ぼくはこの目で見たと思う。東ヨーロッパの機敏で鋭利なサッカーが力のサッカーに対抗できることを、ポーランドはみごとに示した。
破壊力のあるハンマーも、繰り返して打ち降ろすには時間がかかる。ひらりとかわして、すばやくふところに切り込めば、鋭いあいくちでも相手の命を断つことができる。これである。
後半、1−1のあとで、ポーランドのラトーが逆襲ドリブルで2点目をあげそうになった場面があった。そのとき、イングランドのマクファーランドが、うしろからラグビーのタックルのようにラトーの首に抱きついて独走を引き止めた。サッカーの母国の誇りをかなぐり棄てたかのような、みにくい、悪質な反則だった。いっしょに見ていた東京12チャンネルの金子アナウンサーがあとで、「あの反則をみて、イングランドのサッカーの負けだと思ったな」
と嘆息していたが、まったくである。
スコアは引き分けだったけれども、1973年10月17日は「イングランドの敗れた日」だと、ぼくも思う。
●2つのオリンピック会議
9月30日から10月7日までの8日間、ブルガリアの黒海沿岸の町バルナで、2つのオリンピック会議があった。前半は43年ぶりに開かれたオリンピック・コングレス――これはオリンピックに関係のある3種類の団体、すなわちIOC(国際オリンピック委員会)、IF(各スポーツの国際競技連盟)、NOC(各国オリンピック委員会)の関係者全部を集めた総合会議である、後半は第74次IOC総会で、これは恒例のものである。
前半のオリンピック・コングレスでは、2人のサッカーの関係者が、なかなか派手な活躍をした。
1人はFIFA(国際サッカー連盟)のサー・スタンレー・ラウス会長で、これが非常な名演説をした。
ラウス会長の演説は、サッカーの会長としての立ち場で行なったものではなく、多くのスポーツの国際連盟の意見を集めたまとめ役としての立ち場で行なったものだったが、明快で、論理的で、痛烈だった。
オリンピックの総元締めであるIOCの会長は、昨年9月までアメリカのアべリー・ブランデージ氏が勤め、それまでの20年間、ほとんど独裁的にオリンピックを動かしていたが、このブランデージ氏は、がんこなアマチュア主義者で、プロの盛んなサッカーを目のかたきにしていた。ラウス会長は、ブランデージ氏の過去のやり方をきびしく批判して、オリンピックの改革を強く要求した。
もう1人のサッカー関係者は、べースボール・マガジン社から日本語訳の出ている技術と戦術の本「サッカー」の著者アルパド・チャナディ氏である。
チャナディ氏も、サッカー関係者としてではなく、IOC委員として、巨大になりすぎたオリンピック大会の規模を調整する方法について論じたのだが、その中に「プロのいるスポーツをオリンピックから除外しようという意見があるが、数パーセントのプロ選手のために、多くの青少年の間に普及した競技を除外するのは間違っている」という意味の一節があった。ブランデージ氏の時代は急速に去ってゆき、サッカーの哲学が、国際スポーツ界にアピールしつつある――というのが、バルナのオリンピック会議を取材したぼくの感想である。
●ちょっとしたアイデアの広告
ラグビーの日本代表チームが、9月から10月にかけて、イギリスとウェールズに約40日間の遠征をした。サッカーやバレーボールの海外遠征は、昨今ちっとも珍しくないが、日本のラグビーがヨーロッパに出かけたのは史上はじめてだそうである。これをきっかけに日本のラガーメンに、国際的視野が開けるようになれば、まことに結構である。
このラグビーのヨーロッパ遠征に、50人以上の関係者やファンがついていった。終始同行したわけではなくて、観光を兼ねて旅行団を組み、2、3の主要な試合を応援したらしいが、それにしても熱心なことである。
そのなかの1人が、
「びっくりしましたねえ。イギリスじゃあラグビー場に広告があるんですよ」
という。7万人収容のカージフのラグビー専用競技場のスタンドには、日本の野球場なみに、べたべたと広告があって、なかでも、わが日本のソニーの広告が断然目につく。日本の秩父宮ラグビー場には広告がないものだから、そのラグビーファンは「純粋アマチュアのスポーツであるラグビーの競技場に、俗悪な商業主義を持ち込んではいけない」のだと信じ込んでいたらしい。
外国のサッカー場に、広告がたくさんあることは、日本のサッカーファンは先刻、ご承知である。サッカー場だけでなく、水泳プールにも、陸上競技場にもある。東ヨーロッパの社会主義国にもある。
ユーゴのベオグラードの水泳プールとチェコのプラハの陸上競技場で、長い三角柱を横倒しにしたヤツの2面に広告を入れたのに、お目にかかった。広告のない面を下にして、プールサイドやトラックのわきに置いてある。移動式である。半恒久的な場内広告と違って競技会ごとにスポンサーをとることができるのが好都合である。
わが親愛なる純粋アマチュア・ラグビー論者に、このちょっとしたアイデアを見せてやりたかった。
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