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サッカーマガジン 1969年12月号

日本チームの敗因

1 大会をどう見たか
 
あまりにも、たくさんの問題を示してくれた大会だったから、そのすべてを、ここに書きつくすことは、とてもできない。
 キックオフの2時間も前から、全観衆に韓国旗の小旗を配り、応援練習を組織的にやったのには、どぎもを抜かれたが、それも今となっては、小さな出来事だったように思える。
 もっとも重要なことは、この大会は、優勝したオーストラリアだけでなく、韓国にも、日本にもプラスだったということである。
 @オーストラリアにとって ―― 太平洋の南に孤立していたオーストラリアのサッカーが、アジアを通じて世界のサッカーに結びつく足がかりをつかんだのは、彼らにとって大きな出来事だったと思う。長身紅毛の徒が、アジアに割り込んでくるのは、不公平な気もするが、サッカーが“世界のスポーツ”である以上、オーストラリアにもチャンスを与えるのは当然であろう。
 A韓国にとって ―― チームとしても、大会運営のうえでも、プロパガンダとしても、韓国のサッカーにとっては、大きな、貴重な経験であったと思う。韓国チームは、闘志と体力にすぐれ、持っている力を十分に発揮した。しかし基本技術の点では、10年前の韓国のサッカーと本質的には変っていないように思われた。金容植氏のあとを継ぐ代表チーム・コーチの選定ともからみ、日本チームとは別の意味で、韓国のサッカーにも転換期が来ているように思う。
 大会運営の点では、宣伝、応援、アトラクションなどに新しい試みをやった意欲は、買わなければならない。しかし、組織的な応援指導をやるなどは、行き過ぎであるとして、地元のジャーナリズムからも批判を受けていたし、練習グラウンドの不備、海外からの報道陣に対する処遇などに不満の声もあった。この大会の経験が、「韓国サッカー中興」の基礎となるように祈りたい。
 B日本にとって ―― 日本のサッカーの、さまざまな欠陥が洗い出され、再出発のきっかけを作ってくれた点がプラスだった。選手ひとりひとりのパワーに限界が来ていること、そのあとを埋めるはずの若手に経験が足りないこと、セミプロ化しつつある国に対抗するために、どうすればよいか、などを改めて考えさせられた。
 余談だが読者の参考のために書き留めておく。3年前、日本がワールドカップに参加申込みをするとき、日本蹴球協会の中に「1軍で出られないなら、若手の2軍に経験を積ませるつもりで出ればいい」という考え方があった。タイトル・マッチに、そんな安易な考え方は通用しないことを、今度の大会の激闘の連続をみて、協会のおえら方も知っただろうと思う。
 もうひとつ。この大会に日本から新聞だけで9人、雑誌1社、放送2社の特派員が派遺された。単独競技の大会としては、日本のジャーナリズムでは異例のことであった。
 さらに、もうひとつ。審判は、あまりにひどかった。審判の権威を高めることを説きながら、審判によって試合を左右しようと工作するようなことは、やってほしくない。

2 日本の敗因
 クラーマーさんは、「現在の計画と将来の計画」ということを、口をすっぱくして説いた。たとえば日本代表チームを強化することは“現在の計画”であり、少年サッカーを育成することは“将来のための計画”である。二つの計画は、両方とも同じように重要であり、同時にスタートさせなければならないものである。
 これをひっくり返していえば、日本チームのソウル予選の敗因についても、「近い原因と遠い原因」をあげることができる。
 @第1戦の誤算 ―― もっとも近い敗因は、第1戦のオーストラリアとの試合で、作戦を誤ったことである。ここでは小城をストッパーに使い、相手の力をつかんでいない第1戦を、慎重に守りを固めて戦うべきだったと思う。この点については新聞にも書いたからくわしくは触れない。結果論だという人もいるだろう。コーチ陣としては、やむにやまれぬ事情もあっただろう。しかし、ぼくは、オーストラリアに対する多少の過少評価と日本の選手層のうすさが、この誤算を招いたと思っている。
 A準備の不足 ―― これは開幕前から、いちばん心配されていたことだった。選手たちのコンディションは、「合宿入りしたときから悪かった」(岡野コーチの話) し、第1戦にトップ・コンディションにもっていくことにも失敗した。これはオーストラリア、韓国との大きな差だった。
 これを、さらに分析すれば、那須高原での調整の失敗が考えられるし、またヨーロッパ遠征から帰って一度チームを解散し、9月下旬に再び集結するまでの間のコンディショニングの誤算が考えられる。この間に選手たちは所属チームに帰って日本リーグの試合を二つ消化した。ぼくの考えでは、この短い時間に、所属チームのコーチ陣と十分な連絡をとり得なかったのだとすれば、それは日本代表チームのコーチ陣のほうの責任であると思う。
 協会の技術指導陣とクラブの指導者との連絡体制を緊密にしなければならないという問題は、技術指導上の要素だけでなく、行政的な問題をふくんでいる。その体制がしっかりしていれば、はじめからこのような問題は起きないわけである。しかし9月上旬の2週間という短い期間については、その責任を体制の不備にだけ押しつけるわけにはいかないだろう。
 Bジュニア育成を怠っていたこと ―― これは、“遠い敗因”のひとつであり、クラーマー流にいえば、“現在の計画と将来の計画”を同時にスタートさせることを、怠っていた結果である。
 ジュニア・チームをヨーロッパに遠征させるべきであるということは、本誌上でも再三説いてきたが、協会はあまり積極的ではなかった。「遠征費がないなら集めようじゃないか」と書いたこともあるが、「お金はないことはない」という話だった。協会のはじめの口実は「若手だけ行っても、まごまごするだけで効果はない」ということであり、次は「先方 (ヨーロッパ側) が受け入れてくれない」ということだった。本年のジュニア遠征中止の理由については「連れていくコーチがいない」ということだったと聞いている。
 以上のような口実が事実でないとはいえない。しかしクラーマー氏を招くときにも障害はあったし、日本リーグをはじめるときにも困難はあった。
 さまざまの困難や障害を打ち破って、日本のサッカー革新の旗を振ってきた若手の技術畑の役員たちが、旧体制に密着して、保守保身の官僚になってしまうことを、ぼくは心配する。
 ソウル予選に敗れたことや、その敗因の責任追求は、それほど重要でない。
 この機会に、日本蹴球協会の体質を刷新し、若い力を結集することがもっとも重要だ。それが、今できないならば、日本のサッカーは、かつて“ベルリンの夢”にふけってどん底に落ちたように、“メキシコの思い出”に生きるほかはなくなるだろう。


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