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サッカーマガジン 1969年12月号

日本サッカー発展のために
ぼくの3つの提案

クラーマーさんの話
 日本がワールドカップのソウル予選に敗退したのは残念だった。しかし、うしろをふり返って、つべこべいうのは、やめにしよう。反省も大切だが、さらに大切なのは、これからだ。上を向いて、前へ歩こう。
 ソウルに行く前に、クラーマーさんが、ぼくを呼んで耳うちした。「今度は、オーストラリアにも、韓国にも、やられるよ」。不幸にして、その予言通りになったが、クラさんの心配していたのは、ソウルで負けることではなかった。クラさんは、もっと根の深い心配をしていた。
 「日本のサッカーは、もう、これ以上は伸びない。いまのままでは ―― 。組織を作り直さなければいけない。若い人を第一線に立てなければ ―― 」
 クラさんは、こういっていた。ただクラさんは外国人だから、思い切ったことは、いえない立ち場である
 だから、ぼくが、いいたい放題を書こうと思うのだが、もちろん、ぼくの意見は、クラさんと、まったく同じではないかも知れない。しかし、基本的な考え方は、似ていると思っている。
 もう一度念を押しておく。以下の意見は、ぼく自身のものであって、クラさんの考えとまったく同じだとは限らない。

若い人を先頭に
 
若い人を先頭に立てよう ―― 日本のサッカーが、世界のトップに躍り出るために、まずやらなければならないことは、これである。
 日本のサッカーの総元締は、日本蹴球協会という。東京の国電原宿駅の近く、代々木のオリンピックプールの向こう側、岸記念体育会館の3階の小さな部屋に事務所がある。
 この蹴球協会が、有能で、柔軟で、世界のサッカーの動きをよく知っている若手の役員で動かされるようになってもらいたい。
 こういうと「サッカーは、30代の長沼、岡野といった人材を、いち早く登用して成功しているじゃないか」といわれるかも知れない。
 日本代表チームの強化、指導という技術畑に限っていえば、その通りだ。
 しかし、協会全体の運営は、いぜんとして60歳を越えた長老の手に、直接握られている。協会を実質的に動かしているのは、東京にいる常務理事だが、その中に55歳以下の人は、1人もいない。
 日本のサッカー育成に長い経験を重ね、功績のあった人たちの目から見れば、若手の仕事は、ままごとみたいに、危なっかしくみえるに違いない。しかし、若手といっても、たとえば長沼、岡野は、もう40歳に近い。どこの会社でも働きざかり。責任のある仕事を任されている年代だ。
 現在、協会を動かしている長老の功績は、大したものだったと、ぼくは思っている。過去10年間に限ってみても、クラーマーを招いたこと、小・中学校にサッカーを普及させる布石をしたこと、コーチ陣に若い長沼、岡野を登用したことなどは、野津会長、竹腰理事長、小野常務理事が中心になり、他のスポーツ団体に先がけてやったことである。サッカーブームの土台は、こういうことによって築かれている。(特に小野常務理事が、技術偏重に走りがちな傾向とバランスをとりながら、底辺拡充のために常に先手をとってきた手腕と先見の明は、もっと広く知られてもいい)
 このような長老の手腕と功績は十分に認めるのだが、それでも、協会の運営面で、世代が交代すべき時期は来ていると思う。古い話だが、昭和9年、マニラの極東競技大会に、当時の“満州国”を参加させろという動きがあってもめたことがある。そのとき、日本のスポーツ界を代表して、満州 (中国東北地方) に説得に派遣されたのが、いまの竹腰理事長だった。当時、竹腰氏は28歳くらいだったのではないか。
 また、小野常務理事が、大学リーグの運営に敏腕を振るったのは、20代そこそこのころからだったと聞いている。これにくらべれば、いまの“若手”は、年をとり過ぎているくらいのものだ。
 若手を第一戦に立てても、長老が大所高所から見守って、ときにはアドバイスをすればいいのではないか。

事務局の充実を
 
若手の登用と同時に、協会にとって必要なことは、事務局を充実させることだ。
 事務局員の数が足りないというのではない。事務局は雑務を処理するだけでなく、理事会が決めた基本方針に従って、十分な権限を与えられて、スピーディーに、また積極的に仕事を進められるようでなくてはならない。事務処理のひとつひとつについて、長老の鼻息をうかがっているようでは、仕方がない。現在の事務局は、常務理事会が明確な方針を示さないためでもあるが、権限もないし、事務能力も十分でない。
 外国の協会では事務局長 (ゼネラル・セクレタリー) は、たいてい、協会から給料をもらい、事務的な権限を委されている。
 基本的な施策を決めるのは、会長を責任者とする協会の機関だが、決められたことが事務的にきちんと実行されるようにするのは、協会の雇い人である事務局長の権限と責任だ。
 基本的な方針や施策が間違っている場合は、会長はじめ役員の責任だが、決められたことをきちんと実行できないならば、事務局長を解雇しなければならない。
 組織のしっかりしている国の事務局長は、みな忠実、有能で行動力に富み、柔軟な考え方のできる人だという。2、3カ国語は自分で話すことができ、英語の手紙ぐらいは自分で書けなければならない。
 クラさんに、
 「日本もゼネラル・セクレタリーは、ペイド・セクレタリー (有給職員) にしなけりゃだめだ」
 といったら、
 「その通り。大きな仕事は片手間ではできない」
 と大きく、うなずいていた。
 かりに、長沼理事長、岡野事務局長が実現し、平木技術指導委員が全国のサッカーの育成指導を、八重樫技術指導委員が代表チームの指導を担当することになったとする (これは、ただのたとえで、実際にある案ではない)。
 「なかなかおもしろいじゃないか」
 という人も多いかも知れない。

技術と行政を分ける
 
ぼくが、三番目に要望したいことは、こういうコーチ出身者が協会を動かすようになった場合でも「“技術偏重”の弊害を生じないようにしてもらいたい」ということだ。
 ことしの8月、全国サッカー少年団大会とクラブ育成全国協議会が東京で開かれたとき、技術指導委員関係のひとは、一度も姿をみせなかった。
 クラーマーさんが来てくれることになっていて、全国から集まった530人の少年選手と80人の指導者は、非常に楽しみにしていたのだが、クラーマーさんも都合で来られなかった。
 このことが、技術畑の人たちの、普及事業軽視の現われでなければ、幸いである。
 協会の運営には、幅の広い、柔軟な考え方が必要である。
 「名選手、必ずしも名コーチではない」ということばがあるが、名コーチ、必ずしも名行政官とは限らない。技術出身者が行政をやってはいけないというのではないが、技術指導と行政は、次元の違う仕事であり、将来は、行政的な仕事、事務の仕事、コーチの仕事をひとりの人間が兼ねてやることは、困難だと思う。いい人材をたくさん活用できるような組織を作るようにしてもらいたい。

      ×       ×       ×

  今月の話は、読者のみなさんには、あまり興味のないテーマだったかも知れない。そうだとすれば申し訳ないが、蹴球協会は、全国のサッカーマンによって構成されているものであり、協会をよくすることは、日本のサッカーをよくすることの手はじめだと思う。
 「あれは一部のボスどもがやっていることで、おれたちは、グラウンドでボールをけってりゃいいんだ」
 という考え方では、日本のサッカーは、これ以上は伸びないだろうと、ぼくは考えている。


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