8月号に「プロ・サッカーはできるか」という記事を書いたら、打てば響くように反応があって、本誌の “はーふたいむ” のページにも、だいぶ投書があったそうだ。
ぼくのところに、直接電話をかけて議論を吹きかけてきた人もいたし、地方から上京してきたときに、プロのできる見通しをききたいと、わざわざ訪ねてこられた方もあった。そうむずかしく考えなくてもよさそうなのだが、日本人は律儀である。
ひとつの例話
ぼくの町内に将棋の大山名人が住んでいて、先だって町内将棋大会をやることになったら、「わたしも出場する」といい出した。
こんな無茶な話はない。ぼくの町内の将棋選手ときたら、そろいもそろって「王より飛車をなんとやら」の口で、大山名人相手では、飛車角金銀桂香車落ちでも勝つわけがない。
「先生はダメだ、出場資格なしだ」
「でも、町内の大会でしょう。私は町内に住んで、ちゃんと町内会費を払ってんだから」
「そんなこといったって、プロはだめだ。みんな優勝して商品もらおうって、楽しみにしてるんだから遠慮してくださいよ」
てんで、やっと大山名人は名誉審判長にタナ上げして無事将棋大会を開いた ―― というのは、みなウソ。作り話だけれども、プロとアマとはそういうもんじゃないかと思う。
ずば抜けて強いやつはプロなんだ。そいつがヘボの中に入ってきてやられちゃ、迷惑だから遠慮してもらおうってのが、プロとアマの区別、つまりアマチュアリズムじゃないだろうか。
「それじゃ強けりゃみなプロなのか。町内リーグより日本リーグのほうが断然強いから日本リーグはプロなのか」
こんな反論が、もう耳もとに迫っているようなきがするが、これはもののたとえであって、ご承知のように、日本リーグの選手は、 サッカーによってお金をもらっていないという点で、純粋なアマチュアである。けれども「アマだから町内サッカー大会に出て優勝旗をとるのは当然だ」というのは、間違っている、とぼくは思う。プロとアマの問題は、これの程度の高い物ではないだろうか。
三菱重工が国体に出場
10月の福井国体に、東京都代表として三菱重工が出る。日本リーグの花形である、あの三菱重工である。
杉山、横山ケンゾー、片山、森はメキシコオリンピックに行っているから出られないが、残りのメンバーで東京都の予選に出て勝ち、関東の予選にも勝って出場権を得た。
東京都から登録されているチームであり、「日本リーグのチームは国体には出られない」という規則はない。選手がみな資格のある顔ぶれならば、三菱が東京都代表になってはいけない法はない。
三菱の二宮監督は予選に出る前に出てもいいかどうかを協会に問い合わせたそうだが、規則に反しない以上、協会事務局としては「差し支えありません」と回答するほかなかっただろう。
しかしだ。広島から東洋工業が、大阪からヤンマーが出てきて国体を争ったらどうだろうか。国体のよさはなくなってしまうと考えるのは誤りだろうか。
三菱重工には、社内で各部対抗のサッカー試合があるが。杉山選手も、もちろん社員だから出場資格があるのだが、日本リーグ登録選手は、得点してはいけないという特別ルールがあるそうだ。社内運動会だから正式のサッカーとはいえないが、特別ルールを作った精神は、やはりスポーツを愛する者の精神だと思う。同じ気持ちで国体出場を思い止まることは、できなかったものだろうか。
同じようなことは国際試合にもある。国際サッカー連盟 (FIFA) は、「ワールドカップに出場した選手は、オリンピックには出られない」という規則を設けていた。その趣旨は、「なるべく多くの人に国際舞台の脚光を浴びる機会を与える」ことであって、つまり強いものはワールドカップへ、比較的弱いものはアマチュアのオリンピックに出るというのだ。このことはFIFAの公報の中でサー・スタンレー・ラウス会長が述べている。
この規則は、日本をふくむアジアからの提案により、ことしのメキシコ大会から撤廃された。日本のサッカーは、まだワールドカップをねらうほどではないと思うが「親の心、子知らず」とは、このことである。
きたないものは洗え
ぼくは日本にプロ・サッカーを作れと主張しているわけではない。いずれできるだろうとは思っているが、いますぐプロへ向かってアクセルを踏めとはいわない。
ただ、プロ・サッカー反対論の中に、プロはきたないもの、だらしのないものであり、そんなきたないものにさわったら、アマチュアのほうもよごれてしまうという気持ちが根強いようなのが気になった。
プロ・スポーツの弊害があることは認めなければならない。たとえば、自分のチームを強くしてもうけるために、むやみによそのチームの選手を引き抜いたりすることだ。
アマチュアリズムの歴史は、そういう弊害との戦いの歴史だといっても、いいかも知れない。約半世紀の間に、陸上競技など多くのスポーツは、プロを自分たちの仲間から締め出すことによって、弊害を避けようとした。サッカーは、プロをアマといっしょに統制することによって、弊害の起きないようにしようとした。世界的なサッカーの普及ぶりは、あとのようなやり方が成功したことを示している。プロはきたいないものではなく、強いものであり、きたなく、だらしのないものは、プロだろうとアマだろうと、ぼくたちの仲間の中で洗い直さなくてはならない。これがサッカーにおけるアマチュアリズムの考え方だと、ぼくは思う。
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