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サッカーマガジン 1967年4月号

日ソ親善サッカー観戦記

 メキシコ五輪は近い!ソ連チームも出場を賭けチームづくりに懸命だ。日本チームも技術の壁を打破し、メキシコの高地に蹴りこんでほしい。冬空にエリを立て声援しているスタンドはこの願いでいっぱいなのだ。

 ソ連のオリンピック・チームが来て、日本で4試合をした。はじめの計画では、メキシコも招いて三国対抗にするはずだったのだがメキシコは都合で来られなくなった。これは残念だったけれど、ソ連のチームが単独チームではなく、若手のオリンピック・チームだったのは、来年のメキシコ・オリンピックを目ざす日本にとって絶好の腕だめしとなった。
 これまでに来日したソ連チームは、ロコモティフ(36年)、ディナモ・モスクワ(37年)、トルペド・モスクワ(40年)と、いずれも単独クラブ・チームである。
 単独のクラブ・チームにも、良いところはもちろんある。日本では外国のクラブ・チームのサッカーの強さやおもしろさが、まだ十分には知られていないと思うくらいだ。しかしソ連にかぎっては、すでに単独チームを三つも見ているのだから、こんど選抜の代表チームが来たのは、ファンにとってもありがたかった。
 ソ連は1956年のメルボルン・オリンピックで金メダルをとっている。そのころ「機械のように正確なチーム・ワークとスピード」のチームだと、きかされた。
 また「パスは相手のバックの間をぬい、カーブして、1センチも違わずに味方に渡る」「シュートは強烈で、まっすぐくるのなんかない。みなカーブやドロップがかかっている」と見てきた人がいっていた。
 こういうことをいっても、いまでは、そんなにびっくりしないかも知れないが、当時はオーバーヘッド・キックなんてものを、実戦でやってみせる選手は、日本にはひとりもいなかったころである。
 いまなら、高校の選手だってやっているが、10年前には、南米の一流選手だけがやる曲芸だぐらいに考えられていたのである。だから、メルボルンみやげにきくソ連のサッカーは、いまでいえば宇宙船から電送される月の写真を見る以上の驚きだった。
 ところが、そのソ連のチームが、東京オリンピックには来なかった。予選で負けてしまったからである。また単独チームで来日したディナモやトルペドは、かなり老練な選手が多く、意外にこまかい足わざやパスに頼り、メルボルン当時にきいた「機械のようなソ連」とは、ちょっと違ったイメージだった。
 いよいよ、こんどはソ連のオリンピック・チームが来たのだ。10年前に耳でさんざんきかされたチームを目の前で見ることができたのだ。
 もちろん、10年前にメルボルンで優勝したチームと今回来日したチームでは、選手の顔ぶれがまったく違う。それにこの10年間の世界のサッカーの進歩は、目ざましいものがある。
 しかし、こんどのチームは、10年前のイメージをこわすようなものではなかった。いや10年前のイメージに、南米的な柔軟さを加え現代のサッカーに生かしていたといってもいい。
 それもそのはず、まず監督が、メルボルンで金メダルを獲得した功労者のカチャーリン氏なのだ。また、シモニヤン・コーチは、当時の花形選手なのだ。カチャーリン監督の話は、別の記事でくわしく紹介されるはずだから、ここでは省略するが、ひとつだけ、第1戦の記者会見でいったことばを書こう。
 「われわれは4−2−4で戦いますが、守備のチームには育てたくないと思っています。攻撃的な、点をとるチームに育てる方針です。なぜなら、守備に片寄るのはサッカーの試合としておもしろくないからです。これは選手たちも同じ意見です。攻撃のサッカーによって、ファンを喜ばせたいと思います」
 現代のサッカーは、守りのサッカーだといわれている。昨年のワールド・カップでも、守備の強いチームが勝利を得ている。その中であえて「攻撃のサッカー」を主張しているのは痛快ではないか。
 もうひとつ、10年前にきいた話を思い出したのは、ソ連のチームが練習を終って、ボールを片づけるのを見たときだ。
 ひとりが、ボールを入れる大きな網の袋の口をひろげて立っている。散らばっているボールを、つぎつぎにけって、その中へ入れるのだ。遊び半分だが15メートルぐらいの距離から、右にカーブさせたり左にカーブさせたりして、すとんすとんと網の中に入れてしまう。バスケットボールのゴールへ手で投げ入れるのより、間違いない。
 「相手のバックの間をぬって、自由自在にパスをカーブさせ1センチも違わない」という話が、必ずしも誇張ではないと、なっとくできた。
 快晴に恵まれて、2月の寒さの中を2万5千の観衆がスタンドを埋めた。学生の試験期だから、入りが悪いのではないかと予想していたのだが、意外な大入りであった。ことしもサッカーの人気は高まる一方らしい。ただ雪どけで、芝生がゆるんでいたのは、残念だった。
 ソ連は前日の記者会見で、カチャーリン監督が発表したとおりの布陣。日本は4−3−3で、FBラインの編成に苦心のあとがあった。ハーフに富沢、右のウィングに小柄な桑原勝を起用したのも、思い切ったところ。山口、森の学生組が試験期で練習不十分なことと、松本が東洋工業の香港遠征のとき左手首を骨折して使えないためだ。
  前半は日本が圧倒的に押していた。シュート数は日本が10、ソ連が4。この試合はテレビで全国中継されたから、読者のほとんどはご覧になったと思う。したがって試合経過のこまかいことは省略しよう。
 日本はなぜ優勢だったか。ソ連が前半日本のようすを見ていたこともある。とくに立ち上がりの10分間は、あきらかにペースを落として日本を偵察していた。その間に、日本は杉山が走って調子に乗った。パスを出してダッシュする杉山の早さは、ソ連に対しても充分に威力があった。
 ソ連のコンディションが良くなかったのも事実だろう。カチャーリン監督は「60点のでき」だといっていた。外国旅行をすると、時差の関係で生活のリズムが狂ってくる。「昼はねむくて、夜になるとさえてくるんだ」ともいっていた。
 しかし、それにしても、ソ連より多くボールをキープし、ゴール前まで攻めこんできわどいチャンスを作ったのだから、日本のサッカーも進歩したものである。
 ただ優勢ではあったが最後の点をとる段になると、まだ力が足りなかった。
 ソ連のゴールキーパーは、1メートル86の大男でしかも守備範囲が広い。ペナルティ・エリア内にあがったボールは100%とられ、釜本や宮本輝のシュートも、ほとんど正面でキャッチされた。
 ソ連の4FBは、アニチキンの老練なカバーもあって決定的な破れは、めったに見せなかったから、日本にも、相手を完全に攻め崩してのシュートはない。それだけに、大男のゴールキーパーは鉄の壁だった。
 これは―― と思ったのは、前半41分、桑原がゴール正面で、みごとなオーバーヘッド・キック(さか立ちキック)のシュートをしたとき。ボールは左にそれてしまったけれど、ああいう意表をついたことでもなければ、日本の得点はむつかしいだろう。
 ソ連は後半になって力を出した。20分フェドトフからのパスを、ゴール正面でアブドライモフが小さくうしろへ渡し、ムンチアンがバーの下を叩いて入れる強烈な中距離シュート、34分には右から左にまわっていたアブドライモフが、宮本征のタックルをはずして個人技で持ちこみ2点目。勝負はこれできまった。
 得点にはならなかったけれどソ連ですごいと思った攻めは、ほかにもあった。
 前半42分、右のバックのシュタポフが、風のように突進してきて右からきわどいシュート打ったそのすばやさと、走った距離の長さにびっくりした。バックスの攻撃参加は日本リーグでも八幡のバックスや古河の宮本征、三菱の片山がお得意だが、シュタポフのようなあざやかなのは見たことがない。「風邪の忍者」という感じだった。
 もうひとつは、1点をとったあとの後半31分。右からコパエフが持ちこんで正面へ入れたとき、フェドトフ − ムンチアン − アブドライモフが、縦に走りこみながらポジション・チェンジをして、日本の守備を崩し、ダイレクトにすばやいパスをつないだ。シュートは横山がかろうじてはじきだしたけれど、あんな攻めをはじめから出されたら、もう3、4点はとられそうな感じだった。
 こういう鋭い攻めができるのは、結局はひとりひとりの技術が、すばやいからである。キックも、ふりは小さいが、勢いは強烈だった。
 後半鎌田が、相手のキックをまともに顔面にくらって、ふらふらっとした。あとで安田主審が「秒速40メートルのキックだな」と笑っていた。
 東大の戸苅先生の測定によれば、日本選手のキック力最高記録は、宮本征勝選手。ボールの初速は秒速32メートルなのである。
  「第2戦は4−2−4でやりますよ。1回はがっぷり四つに組んでみたい」
 第1戦が終わったすぐあとに、長沼監督はこういっていた。
 4−2−4でやる構想は、八重樫を久しぶりに使ってみようという考えにつながっている。
 フルバックに長岡を使うことも予想できた。日本のフルバック陣は、片山を除けば、だれをとっても「おびに短かし、たすきに長し」というところがある。
 ここで新しいタレントを発掘すべきときであり、それには釜本と同じ地元京都・山城高出身の長岡をテストする絶好の機会であると思われた。フタをあけてみると、日本側ではゴールキーパーに、老巧保坂を起用したのが、意外といえば意外である。
 ここは地元関西出身の浜崎を使うことも予想されていた。FWは渡辺を宮本輝の内側に並べている。これは「内側から外へ走り出るときの渡辺の強さを生かしたい」(長沼監督)というアイデアである。
 ソ連は、第1戦で日本をてこずらせたゴールキーパーの大男ウルシャーゼと足の早いFBシュタポフを引っこめ、第1戦の殊勲FWアブドライモフも、前半は温存した。つれてきた選手を、全部一度は使いたいという配慮もあったのだろう。中盤も第1戦のシャリヤチスキーが、経験豊富なガドチェフに代っているが、これはメンバーを落としたのではなく、むしろ攻撃的に強化したらしい。
 うすぐもり。暖かい好コンディションに恵まれ、午後3時半のキックオフ。観客席はほぼ満員の1万2000人で埋まっている。芝生は平坦で足もともしっかりしており、まずまずである。
 立ち上がりは日本が優勢。3分宮本輝が右から抜けて正面へ送り渡辺が初シュート、6分には左サイドで杉山が2人抜きを演じたが、センタリングをゴールキーパーにとられた。
 8分にソ連が逆襲に転じ、フェドトフ−ムンチアンと渡って右から食いこみシュート。保坂がとび出して抜かれたが、長岡がよくまわりこんでけり出した。地元出身だけに、やんやの拍手である。
 その後約5分間、ソ連のたて続けの猛攻に、日本の守備陣はきりきり舞いさせられた。
 ムンチアンとフェドトフが軸で中盤からガドチェフもあがってきたときに、きわどいチャンスになる。足もとが固いせいか、攻め方は第1戦よりも、個人のボール・コントロールの良さを生かして技巧的である。
 ピンチの連続を切りぬけたあと15分に日本が、あざやかな先取点をあげた。
 ペナルティ・エリアの左外側、ゴールまで約30メートルの地点でフリーキック。杉山がけって逆サイドの釜本に振り、釜本がヘディングで正面に落としたのを、宮本輝が左足のボレーで決めた。
 「杉山からのボールを釜本のヘディングに合わせ、その落下点で宮本輝か小城に決めさせるのは、日本の重要な得点コースですよ。アジア大会でもすいぶんやりました」と、これは長沼監督にあとから聞いた解説。これが絵に書いたようにきまって、思いがけないリードに、スタンドの拍手は、またひときわ大きい。
 しかし、ソ連は次のチャンスをすぐものにして8分後に同点にした。正面ペナルティ・エリアすぐ外のフリーキックをコパエフがけってフェドトフがつなぎ、キッカーのコパエフがそのまま縦に走り抜けて、ころがしこんだ。日本の守備陣の虚をつくようなすばやい走りこみだった。前半を1−1で終って、ソ連は後半からアブドライモフを出したあとでカチャーリン監督は「どうしても勝ちたいからアブドライモフを出した」といっていた。先取点を奪って、強敵をおびやかし、相手のエースを引っぱり出した日本代表の健闘は賞められていい。
 一方の日本は、後半から八重樫を引っこめた。前半の日本が、第1戦以上のうまい攻めを見せたのは、八重樫が衰えないパスさばきの巧妙さを発揮したからなのだが「アジア大会で負傷した12月11日以来、はじめての試合だからそう酷使するのは無理だ」とベンチが判断したのだろう。ソ連のプラスと日本のマイナスこれは後半がはじまると、たちまち現われた。
 2分ソ連の左サイドでパスが抜けエシコフが勝ち越し点。16分にはガドチェフが左からまわしたのをアブドライモフが中距離からの弾丸ライナーで決めて追加点した。
 後半のソ連は、前半の柔軟な技巧的攻め方に、一本鋼鉄の筋金が入った感じで、力とスピードの鋭さをみせた。後半日本のチャンスがなかったわけではない。6分、34分、35分と杉山の足がものをいった場面があり、38分にも宮本輝の絶好のシュート・チャンスがあった。
 特に35分杉山が左から持ちこみ、木村がシュートしてゴール間ぎわの混戦になったときは、ソ連のフルバックが折り重なって倒れて必死に防ぎ、あわやPKという場面だった。
 日本はアジア大会から帰国後、しばらく間を置いての国際試合であり、合宿練習も満足にしていないうえ、松本をはじめ故障者も多い。そのことを考え合わせると、昨年6月のアルビオン来日当時より、いい試合ぶりをみせている。日本代表チームは、またひとまわり成長しているようだ。


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